生存報告

 ・・・・・・全然更新できなくて反省反省。
 いくつか記事は書き溜めているのだけど、「これはもう少し調べたからアップした方がいいな」とか思ったり、そもそも調べる時間がなかったりで結局更新できずじまい。

 なんとか今月まともな記事を一本でもあげたい・・・。
 とりあえず根拠地の整理と地方志の研究を進めないと。

 あと、ずっと前ブログからの移行を忘れていた「日中共同研究」記事を昨年の2月〜4月の記事として移動しました。
 次の「地名表記」のエントリーも移行記事です。

「公表をはばかる内容なので公表できません」


 別件で上京した機会をとらえて、防衛省防衛研究所史料閲覧室でなにかおもしろそうな史料はないか漁ってきました。


 ちょっと使い勝手は悪かったですが、あそこはあそこで宝の山ですね! ぜひまた漁りに行きたいですね。旧軍関係者の回想録とか文書とかあそこ(一部東アジア歴史資料センターにもあるが、やっぱ史料閲覧室の方が豊富かね)にしかない史料がいっぱいって感じ。
 あまり多くは読めなかったけど、その中でも特に「折田貞重大佐回想録」がお勧めかな? とても興味深いことがたくさん書いてあります(あと当人がすごいやる気になって書いています)。一部コピーしてきたので、そのうち著作権に反さない限りの引用で紹介します。



 それはそうと、以下の二つのような防衛研究所の奇妙な対応も体験してしまいました。



・閲覧不可になった毒ガス戦史料


日本軍毒ガス作戦の村―中国河北省・北坦村で起こったこと

日本軍毒ガス作戦の村―中国河北省・北坦村で起こったこと


という本がある。

日中戦争下、華北各地で日本軍がおこなった三光作戦。毒ガスを使って約千人の犠牲者を出した「北坦事件」の実態を、生存者たちへの聞き取り、日本軍の元兵士の証言をもとに、15年の歳月をかけて再現した執念のドキュメント。(「BOOK」データベースより)


との説明にあるように、この本は日本軍が河北省の北坦村で毒ガス戦を用い、地下道に避難していた住民ら800人以上を虐殺した事実を十五年の歳月をかけて証明した良書である。
 著者は中国側の生存者の証言や史料だけでなく、作戦に従事した旧日本兵へもインタビューし、さらにその裏づけとなる日本側の文献史料も発見した。
 その日本側史料の発見場所は防衛研究所史料閲覧室、史料名は「第百十師団第一六三聯隊大隊長大江芳若少佐資料」。この資料は防衛庁が『戦史叢書』など戦史の編纂のために集めた回想・手記の一つらしく、『日本軍〜』によれば、以下のような戦史編纂官のコメントがある。

「本資料は昭16・8〜18・12 110D163i(「昭和十六年八月〜同十八年12月 一一〇師団一六三連隊」の略)の大隊長である本人(筆者注―大江芳若氏)が執筆または使用した治安関係資料であり、好資料と認める」(P43)


 以下、『日本軍毒ガス作戦の村』に引用されている部分より。(()内はブログ主の補足)


直ちに部落外囲の坑道を捜索せしめ又部落中の井戸其他坑を捜索せしめ毒瓦斯(毒ガス)を投入せしむ。(P45)

 と、はっきりと毒ガス戦の使用について描かれている。 


 『北支の治安戦』の巻末引用資料一覧にも「大江芳若中佐(41期)治安工作関係資料綴」(第百十師団歩兵第百六十三聯隊第一大隊長時代)という資料名があるが、内容からして同一のものと判断していいだろう。『北支の治安戦』では、この資料の毒ガス使用の箇所にはふれず、治安戦の戦果についての記述だけ利用しており、そのあたりを指して「好資料」と言っているのだろう。


この虐殺事件に私はとくに重点を置いていたわけではないが、せっかく史料閲覧室に来たのだし、研究の基本である原文史料の確認をしておこうと、職員に請求した。*1


 ところが。


職員「その史料は閲覧不可史料です」


 ・・・・・・・・・・・・えっ? でも以前ここで見たってあの本には書いてあったよ?


職員「以前は閲覧できましたが、遺族の希望により、平成17年から閲覧不可になりました」



 ・・・・・・・・・・・・そう来たかぁ!防衛研究所!!


 「大江資料」を日本軍毒ガス作戦の証拠とするこの本が出たのが1997年(平成15年)。それと閲覧不可の関係を予想するのはあまりに容易だ。


 う〜うん。防衛省の隠蔽体質は知っていたが、まさしくそれを実感できた体験だった。


 と、思ったら、第二段があった。




・「そこには公表をはばかる内容が書かれているので公表できません」

 

 さて、『北支の治安戦 2』巻末の典拠史料の中に「北支に於ける奔敵事犯と之が警防対策」という史料がある。
 これはもしかして華北において自ら敵(八路軍)に走った(=奔敵)日本兵らのことに関する史料ではないかと思い請求したらまさしくその通りであった。


 この史料は30ページほどの小冊子の形態で、昭和18年憲兵隊によって内部発行された史料らしい。表紙には発行時(昭和18年)に押された「極秘」のスタンプがある。
 この史料には少なからぬ数の日本兵が「奔敵」したり、「生きて虜囚の辱めを受けず」を破って生きて敵の捕虜になったことが書かれている。中には八路軍に「奔敵」し、または捕虜になった後、帰ってきたり帰されてきたりする日本兵もおり、その時の情況などについての取調べの記録もある。


 ところが、小冊子の後半は、なぜか袋綴じになっており読むことができない。どうやら当時から袋綴じになっていたわけではなく、防衛研究所に史料として収蔵されるにあたってそのような処置がほどこされたようだ。



 さっそく職員に聞いてみた。


私「この袋綴じになっている箇所、読めないんですか?」
職員「そこには公表をはばかる内容が記されているので公表できません」



・・・・・・・・・・・・・・・公表をはばかる内容ってナンですか?


 よっぽど聞きたかったが、「公表をはばかる、ってどんな内容だからですか?」とか聞いても「だから、そういうのを言えないから「公表をはばかる内容」なんだよ!」ってツッコまれるだけなのでやめた。



 ただ、推測することはできる。


 この史料には「奔敵」行為や「生きて虜囚の辱め」を受けたあげく、日本軍に戻ってきた日本兵たちについて、憲兵隊がそれに対処するために作成したものだ。前半でそれらの事例について分析しているのなら、(袋綴じで読めない)後半には、その「対策が書かれているのだろう。そこには戻ってきた「日本兵」をどう処遇するかについて書かれているのではないだろうか?
 まだはっきり調べたわけではないが、いったん捕虜になったが解放されて日本軍に戻ってきた兵士が殺されてしまっているという話が日本兵たちの間で存在したらしい。中国側(八路軍中共)の証言でも、当初は捕虜にした日本兵を解放していたが後に「日本軍に戻ったら殺される」と訴えられて日本軍に戻すのはやめた、という話がある*2
 おそらく「公表をはばかる内容」とは、戻ってきた自軍の兵士(捕虜含む)の<処置>についてではないだろうか? もちろん<処置>とは殺害のことで、憲兵隊の内部史料であることを考えればかなりはっきりと書いてあったとしてもおかしくない。



 ともかく、見せられないと言われるとよけい見たくなるのが人情である。


私「どうしても見れないんですか?」
職員「申請があれば会議にかけて公表を検討します・・・・・・でも申請が通ることはほぼないですよ」
 

 ・・・・・・なんつーか、職員さんの対応は親切なんだけど、そこはかとなく「申請なんてするなよ、その史料ヤバイんだから」という言外のメッセージが感じられる雰囲気だったんだよな〜。
 時間もなかったし、なんだかめんどうな話になりそうだったので結局申請はしないで帰還。
 今思えば黙って下がるのも悔しいので、申請してくりゃよかった。今度、挑戦してみるか。



 と言うわけで、興味深い史料を漁れただけでなく、防衛省(あるいは役所)の隠蔽体質&史料から見え隠れする日本軍の闇ということも実感できたわけで、なかなか有意義な調査でした。


 

*1:史料閲覧室では閲覧したい史料を職員に請求して史料庫から持ってきてもらう仕組み

*2:このへんは『日中戦争下 中国における日本人の反戦活動』あたりに載っていたはず

ちょっと防衛研究所に

 行ってきます。
 
 ちょっと所用で東京に行くので、時間を作って防衛研究所の史料閲覧室に行ってこようと思います。
 ここは防衛庁の戦史編纂室が、戦史叢書を作成するため収集した戦時中の文書や旧軍関係者の手記が保存されており、その多くがここでしか見れない代物。
 中国でさんざん中国語史料を集めてきたので、次は日本側の、ということです。
 あと「連隊史」も多く所蔵しているらしいので(これらは国会図書館でも読めますが)、こちらも時間ある限りチェック


 ・・・・・・が、いかんせん私は、日本軍について(興味なかったせいで)よく知らない。中国では具体的にどの部隊がどこにいてどういうふうに動いていたか、関連する史料はどれを見ればいいかも全然わからない・・・・・・。


 というわけで、急遽戦史叢書の『北支の治安戦』をひっくり返し、本文と巻末の出典史料の欄を付き合わせ、部隊の把握となんかおもしろいことが書いてありそうな史料をピックアップ中。
 その中でも似たような史料があった場合(同じ部隊の複数の人々の手記)どれを優先するべきかもわからないのだけど、とりあえず手記や回想録の場合、階級が低い人のを優先しようかと・・・・・・。なんか今までの経験法則からして階級の低い人のほうが率直かつうっかりやばい話をしていたりしておもしろいんだよね。


 まあ、とりあえず何かおもしろい史料があったら紹介していきます(日本語だから楽だ!)

冀魯豫抗日根拠地

 のびのびの「抗日根拠地」概要まとめを。

※まだまとめ途中ですが、いつまでも更新できないので、まとまった分から随時アップしていきます。


冀=河北省
魯=山東
豫=河南省


冀魯豫抗日根拠地


概要

関連部隊:一一五師,一二九師
所在地:河北省,山東省,河南省江蘇省
範囲

 冀魯豫抗日根拠地は、華北南線の中部にあり、広義には河北,山東,河南,江蘇四省のまたがっている。この根拠地は、東は津甫鉄道*1から始まり、山東抗日根拠地と連結している。西の端は平漢鉄道*2で、晋冀豫抗日根拠地と連結している。北は石徳鉄道*3、滏陽河*4で、晋察冀抗日根拠地の冀中区と繋がっている。南は隴海鉄道*5を越え、豫皖蘇区*6と隣接する。*7

根拠地を構成する地区:1、冀魯豫辺区  2、魯西地区 3、湖西区 4、水東、水西区 5、冀南区
面積
人口、県数、兵力:(1945年9月時点)118県(うち県城61を含む)を包括。兵力15万。
備考

冀南と冀中を結び、また太行山区と山東区、さらに華中根拠地と連携する上で必須の地であり、極めて重要な戦略拠点である。(中略)日本軍の凄まじい侵攻と残虐行為に対し、国民党軍隊は戦わずに撤退した。政権は次々と崩壊し、行政職員も県長も南へ逃亡した。こうして冀南地区では日偽軍が猖獗を極め、その機会に乗じて土匪も蜂起した。その中でも大規模なものは1000人以上、小規模な場合は十数人であり、雑牌遊撃隊は120余もあった。彼らは各地に割拠する一方、あらゆる悪事に手を染めて民衆に危害を及ぼし、時には殺人放火も行った。外には侮られ内は乱れ、民衆はまったく生きていくのが困難であった。*8


沿革

1938年春:各地に地方党委成立。遊撃隊を組織
1938年末:一一五師、直南区*9、豫北区*10、魯西南区*11に進出
1939年2月:・一一五師三四四旅、これらの地区の部隊を統一し、冀魯豫支隊成立
・一一五師第六八六団と六八五団、魯西区入り。
・一二九師、魯西北区入り。
1940年4月:・冀魯豫区党委成立
魯西軍区及び行政行政公署成立
1940年4月:八路軍第2縦隊、冀魯豫区に進出。
→縦隊と機関を兼任する冀魯豫軍区成立。直南区,豫北区,魯西南区の3区を統括する。
※これを以って、冀魯豫辺抗日根拠地の成立とする。
1941年7月:魯西区と冀魯豫辺区を合併
新冀魯豫党委軍区および行政公署が誕生(元の魯西区のうち湖西区だけは山東軍区に入る)。軍区司令・政委は八路軍第二縦隊司令・政委が兼ねる。
・1942年2月:山東軍区の湖西区および新四軍管轄の豫皖蘇根拠地の水東区を冀魯豫辺区に編入
・1942年10月:冀魯豫辺区は、中共北方局の指導下から太行局の指導下に移る。
・1944年5月:冀南区を冀魯豫区に編入
中共中央平原分局および新冀魯豫軍区誕生

*1:天津から江蘇省浦口を結ぶ鉄道

*2:北平と湖北省漢口を結ぶ鉄道

*3:山西省に近い河北省の石家庄と河北省との境にある山東省の徳州市を結ぶ鉄道

*4:河北省南東部衛水市を流れる河

*5:黄海に面する江蘇省連雲から甘粛省蘭州を結ぶ鉄道

*6:河南、安徽、江蘇にまたがる新四軍の抗日根拠地

*7:P187

*8:華北抗日根拠地発展史』P57

*9:河北省南部

*10:河南省北部

*11:山東省南西部

地方志に見る抗日戦争(2)

 なかなか更新できないが、まあ、マイペースでやっていくつもりです。
 
 
さて、「地方志」の視点から抗日戦争の姿を見ていきたく思い、華北四省(山西、山東、河北、河南)から各省二県づつピックアップして資料を収集した。
 一つの省には60〜100の県が存在するのだが、その中からどういう基準で2つの県を選んだかについて。


 まず重要な点は二点。

  1. 抗日闘争がそれなりに行われていたこと(特に八路軍もしくは共産党系の部隊の活動があること)
  2. 「地方志」に抗日戦争時代の記述や資料がそれなりに充実していること


 なので、日本軍の支配が徹底していて、実質党組織の地下活動しか行われていないような太原(山西省)や済南(河南省)などの都市は除外。県の上位に位置する「市志」か調査対象から除外することとする。
 また、国民党系の部隊しか活動していない地域も私の研究対象から外れるので除外。なお共産党系だが、新四軍系の部隊しかいない地域も除外した。
 特筆することがないのか、編纂委員がいい加減なのか、抗日戦争時代の記述が少ない「県志」の県も除外。


 その上で、以下の点に注目して2県選んだ。

・1県目→特別であること
その省の抗日闘争において特に指導的な立場にあった。歴史的に重要あるいは個性的な闘争が行われた地域。つまり「特徴があること」を重視。
・2県目→典型的であること
指導的な立場になく、特に重要な事件も起こっていないが、抗日闘争が続けられ、資料も充実している県。当該地域では典型的な抗日闘争が行われていたと思われ、普遍化することができる。つまり「特徴がないこと」を重視。


 歴史的闘争的に重要な地域の抗日史は華々しく資料も充実しているが、そのような地域ばかり選んでいては偏りが生じるであろう。
 「典型的」な県はチョイスが難しいが、棚からランダム(例えば7月なので左から7番目にあった「県志」とか)に取り出し、これはと思うものを選んだ。


 また「県」レベルばかりではいけないので、「村志」で良いものがあれば使用した。
 漢族の多い地域ばかりを取り上げるのも偏りがあるので、「回族自治権」なども取り上げたかったが、いかんせんそれらはあまり資料が充実しておらず、断念するしかなかった。

 以上を踏まえた上で、チョイスした8地域(4省×2)について次回紹介する。

調査日記 失敗編3


 次の日、帰国前の最後の一日に未発見の残り2本の論文をゲットするため市民図書館。

 操作法を教えてもらい、図書館のパソコンで論文検索をする私。
 その姿がよほど切羽詰っていたように見えたのか、図書館職員のお姉さんがアドバイス

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