「あなたはなぜ八路軍に参加したのですか?」

 今年も7月7日、盧溝橋事件=日中全面戦争勃発の日がやって来ました。・・・・・・残念ながら記事を7日にあげられなかったのですが、日付操作して7日にあげたことにします。
 そういう特別な日企画ということで、今回は八路軍兵士たちの「参軍動機」について分析してみたいと思います。

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順平県抗日闘争史[3] 1942年〜1943年

 『順平県志』における河北省順平県(当時の名称は「完県」)の1942年から43年にかけての抗日戦争について、年表の3回目。


 『順平県志』では、42年の出来事に入る前にこの年の状況を「1942年は抗戦始まって以来、最も苦しい一年であると同時に最も勝利に近づいた一年である」と総括し、「残酷な戦争に適応するため」党政各機関にて”精兵簡政”*1と”整風運動”*2と説明し、これを「今回の普遍的なマルクス・レーニン主義運動は各種の仕事の発展を推し進めた」と評価している。
 また公安局の動きとして「敵が強く我が方が弱いという情勢下」において「あまり目立っていなく、身分がはっきりしない*3幹部を両面政権*4の村幹部として配置」することによって情報収集などを行ったことを特筆している。




1942年 1月1日 
各区役所にて大規模な人員整理を行い、生産から離脱していた専門職員の多くを村に帰して生産に従事させるか、生産から離脱せず区公所の仕事をする”協助員”とする。


1942年 1月13日
 辺区委が『晋察冀辺区志願義務兵役実施暫行弁法』を発布。


1942年2月
 月初めより、県内の18歳以上50歳未満の男子全員参加で冀中*5への大規模食糧輸送を行う。


1942年 2月12日
 『晋察冀日報』にて『関于抗日根拠地土地政策的決定』を発表。統一戦線の観点から、地主へ払う小作料軽減を図ると同時に、定められた小作料は払い地主の利益を擁護することとする。


1942年 春
 従来の県大隊を第7区隊に編成し、完県城*6攻略作戦が行われる。その後、各区小隊から人員を選び、新たに県大隊を編成。
 日本軍は山区と平原区の連携を断つために、域内三番目となる封鎖線を造る。この封鎖線は東は満城県から西は唐権境に至る*7。県内に21のトーチカを設置し、その周囲には深い溝を掘って橋をかけて外と行き来できるようになっていた。ここから日夜「掃蕩」を繰り返す。


1942年 4月
 中共中央宣伝部から「整頓三風」の学習指示が出され、ここより完県でも整風学習委員会が成立し、整風運動が開始される。
 全県で大規模な封鎖線破壊作戦が行われる。出動した民兵8千人前後。特に新しく造られた三番目の封鎖線の破壊に力を入れ、根拠地と冀中区*8の連携を保とうとする。


1942年 5月1日
 日本軍、兵力5万を動員し冀中区*9に対し空前の大掃蕩を行う(5.1大掃蕩)。冀中区の主力部隊は、完県や唐県に撤退。*10


1942年 5月20日
 冀中区軍民の反掃蕩戦を支援するため、三分区二団と第七区隊が日本軍占領下の完県城を奇襲し、日本軍中隊長以下82人を殺害し、食糧1万5千キロを奪回する。


1942年6月
 軍区の主力部隊と県大隊が日本軍・偽軍を待ち伏せ攻撃
 武装部がトーチカ周辺の村から人を選び銃の特訓を行わせる。訓練終了後、彼らはトーチカの見張りへの狙撃を行い、日本軍偽軍は昼間に見張りを立てることができなくなる。


1942年 夏
 全県で大規模な開墾や生産運動。
 華北連合大学文工団*11が、『陸文竜』『亡宋鑑』などを上演。内容は南宋の英雄たちが金に抵抗*12した話である。
 全県でソ連スターリングラード防衛戦勝利の慶祝活動が行われる。


1942年9月
 中共中央北方局及び晋冀察軍区の高級幹部会議が開かれ、反”蚕食”*13闘争の戦略が決定される。会議後、主力部隊と地方部隊からの人選で武装工作隊*14を組織し、「敵後の敵後に深く入り込み、敵の心臓部へと迫」っての反”蚕食”闘争が行われる。


1942年 9月24日
 雲彪支隊の一小隊及び区幹部、県武装部部長、区長など30人の幹部が敵占領区での工作に向かうが宿泊した村で親日村長らの密告に遭い、25日に80名余りの完県特務隊に包囲される。包囲突破の過程で小隊長や区幹部など8名が犠牲となり、区長が囚われる。


1942年 秋
 辺区委員会が完県に130万キロの公糧*15の納税任務を課す。当時、平原部が占領されているため完県の食糧事情は逼迫していたが、農民らは食事を節約し期限までに完納する。


1942年 12月
 指導の一元化を図るため、県工人救国会,農民救国会,婦女救国会,青年救国会,文化救国会,医療救国会などを県抗日救国聨合会(抗聯会)へと統合する。
 また太平洋戦争の勃発に伴い敵への政治工作を強化するという北岳区の指示に基づき、県文化救国会は”文化軽騎隊”を組織し、敵拠点付近で宣伝品を巻いたり抗日標語を書いたりなどの活動を行う。
 県公安局は白北庄西のトーチカで二名の偽警察を捕らえ、三八銃二丁と弾丸180発を確保する。


1942年 冬
 偵察により県城の敵兵力が手薄になったことを知った第三分区第二遊撃隊が完県城を急襲。



1943年 1月15日〜21日
 阜県にて第一回晋察冀参議会が開催。1940年8月に中共北方局が提出した『双十綱領』が辺区政府の施政綱領として定められた他、『辺区租佃債息条例』『辺区志願義務兵役制的実施弁法』『辺区統一累進課税税則及其施行細則』などが制定される。


1943年 1月〜2月
 軍区所属の騎兵団,二団,冀中十八団,県大隊の中から教養があり、日本語が話せ、党の政策をよく理解する幹部らが選ばれ、賈庄にて敵後武工隊が組織される*16


1943年2月〜3月
 ”精兵簡政”の精神に基づき、公的機関の人員をさらに削減。


1943年3月
 県公安科警衛隊20名が便衣で日本軍が盤居する北城村に潜入。日本三騰洋行*17の大型トラック一台、ラバ二頭、抗日根拠地で不足の塩や日用雑貨などをトラック一台分を奪取する。
 八路軍騎兵団が駐屯する斉各庄の近隣にある馬各庄に陣取り、斉各庄の騎兵団を消滅させようとする。遊撃隊が斉各庄の対日協力者を捕らえ情報源がなくなった日本軍は十数日後に目的を達せぬまま完県城に戻る。


1943年春
 千人余りの日偽軍が南釣台を包囲。同村の青年抗日先鋒隊と遊撃隊は地雷と手榴弾を用いた戦術で抵抗。日偽軍は70人余りの戦死者負傷者を出して撤退。遊撃隊側に戦死者無し。


1943年5月1日
 日本軍、晋察冀三分区に大規模な「掃蕩」をしかける。と同時に、完県に対しても7日7晩にわたる攻撃を行う*18。軍民は遊撃戦,雀戦*19,地雷戦で対抗。


1943年5月2日
 完県の民兵と遊撃隊、南峪村に侵攻した敵に奇襲をかける。敵は逃亡し、その際に雑囊,電話線などを遺棄していく。


1943年5月3日、4日
 敵は2日間連続で賈各庄に対し攻撃を行う。


1943年5月5日
 県大隊50人と県公安科警衛隊、機関銃一丁,擲弾筒一門を携えて待ち伏せ攻撃をしかける。


1943年5月7日
 日本軍は野場にて民衆を包囲し、大虐殺を行う(野場惨案)*20


1943年5月8日
 日本軍撤退。
 完県は春季大掃蕩を粉砕するものの生産に深刻な破壊を受ける。さらに干ばつにより山岳部の生活はますます困難になる。毛沢東の「自力更生」を合言葉に大規模な生産運動が行われる。また、県政府は1941年に私商人から没収した5万キロの食糧を各地に分配し、食糧問題の解決をはかる。


1943年6月
 政府、被災農民に紡績業への参加を呼びかける。合作社が原料の綿花を供給し、完成した布などを合作社に収めて賃金を得るシステム。被災農民は争って参加し、月末には総額25万元の収入を得る。


1943年7月
 野場惨案を忘れないために李劫夫が歌曲『忘不了』を作る。
 太平洋戦争のため日本軍の人員が不足している機会をとられ、敵工*21幹部を敵内部に侵入させる。また完県,唐県,望都県が連合し2000人の民兵を動員して封鎖壕と日本軍交通線の破壊を行う。
 遊撃隊小グループは斉各庄一帯を「掃蕩」に来た日本軍を手榴弾で攻撃し、日本軍の車一台を焼き、三八銃一丁を手に入れる。一方、敵工部長,三区治安員,二支隊の一部戦士が塔山坡の敵拠点を攻撃し、偽警察三名を生け捕る。


1943年9月24日
 偽軍3000名が県城への撤退途中、斉各庄にて遊撃隊の地道戦による猛攻撃を受ける。戦闘終了後、区遊撃隊隊長・斉全力と区治安員の斉希古は「文武両道幹部」の称号を贈られ、併せて区群集英雄大会に出席する。


1943年冬
 県委と県政府は大会を開き、日本軍の罪行を明らかにする。張君朴が『復讐の炎』という小冊子をまとめ、南下邑の戦闘英雄・馮振民と小掌村の労働模範・趙志潔の事跡を紹介し、群衆の抗日と生産への情熱を大いに盛り上げる。

*1:軍事面では日本軍の高度分散配置によって大部隊による大規模作戦が不可能になったため、人員を整理し軍の規模を縮小。軍から解除された正規兵は地方軍または民兵などに回され、生産に従事させながら小規模な作戦を行わせた。また政治面では抗日根拠地などの肥大化複雑化した行政組織を人員整理や部門統合によって簡素化し、仕事に不適合なものや汚職幹部を追放した

*2:抗日戦争開始後、中国共産党は主に都市部からの知識人を含む大量の新党員を獲得したが、そのため党内で各種の矛盾も発生し、特に毛沢東派と王明らソ連派の対立が深刻であった。そのため毛沢東が展開した党内思想を統一するための教育運動が整風運動である。これは共産党の抗戦体制を強固にした面もあるが、同時に毛沢東の独裁への萌芽や後の文革に繋がるような粛清も行われた

*3:敵に共産党員or抗日闘士と暴露されていない

*4:日本軍が優勢な地域の民衆は表立って抗日闘争が出来ず、村には日本軍と傀儡軍によって親日政権が作られた。しかし、共産党は表向きは親日政権の村に密かに抗日政権も樹立し、親日政権と共存させた。抗日政権は親日政権に秘密の場合もあるが、たいていの場合、両者は協力して村を運営していた。例えば昼間に日本軍が村を訪れる時は日本軍が選んだ親日村長が応対し、夜になると抗日村長が村人を組織して抗日活動をする、という具合である

*5:河北中部

*6:完県の中心都市、日本軍の占領下にある

*7:満城県は順平県=完県の東北部と隣接し、唐県は西南部と接する。そうだとすると、この封鎖線の長さは直線にして30キロほどとなる

*8:河北中部。そのほとんどが平原区である

*9:河北省中部、大平原地帯

*10:この5.1大掃蕩により冀中区の部隊は壊滅する

*11:文芸工作団。演劇や歌を通じて民衆に抗日を宣伝する

*12:南宋漢民族王朝、金は北方から中国に侵攻して来た異民族国家である

*13:”蚕食”とは、抗日と共産党の安定した基盤であった抗日根拠地を不安定な遊撃区に、そして不安定ながらも完全には占領されていなかった遊撃区を占領区へと変えるべく日本軍が行った一連の戦略行動を指す。

*14:日本軍偽軍の占領区または半占領区で活動するために組織された少人数の特殊部隊。民衆への抗日宣伝や敵小部隊への攻撃、スパイ・対日協力者の粛清などを行う

*15:部隊や政府が使用する公の食糧。当時の税金と言える

*16:この武工隊員の中にあとに作家となる馮志がいた。彼は新中国成立後、自分と戦友たちの活動ほぼそのまま小説化した『敵後武工隊』という小説を書き、これが大ヒットしたために数ある武工隊の中でも完県賈庄で組織されたこの武工隊が最も有名なものとなた

*17:洋行とは日本軍が経済活動のため占領地に進出された半官半民の企業。華北の物資の収奪やその売買に関わった

*18:「なぜなら当時晋察冀軍区供給部門,軍区衛生機関,三区供給部門,後方医院の負傷者がすべて完県にあったからである」

*19:2、3人の小グループがヒット&ランな攻撃を交代で延々としかけ、敵を疲労させ弾丸を消耗させる戦術

*20:『順平県志』の別項、「日偽暴行」によれば、日本軍は住民を一箇所に集め八路軍の情報を提供するよう迫った。住民がこれを拒否すると機関銃掃射などで118人を殺害。54人に重傷を負わせた。

*21:対敵工作科

日中戦争とイスラームについて

 自分用メモ。用が終わったら消す予定。

 ciNiiに日中戦争期の日本の対中国ムスリム工作に関する論文がある。そのうちオープンアクセスとなっている論文もかなりあるので、×日後に時間が出来たら読んでおくこと。検索ワードは「イスラム 戦争」。

 ×日後の自分へ。

立っている者は親でも使う男・河村市長

 河村名古屋市長の南京虐殺否定発言について、批判エントリーを書いていたら、急に「webページエラー」が発生して勝手に接続され直されて書いた記事が全部消えてしまった・・・・・・。ってこのブログよくこういうことが発生するんだが(怒)。今まで長々と書いたあげく「webページエラー」で保存前に消えてしまったことは数知れず。こっちも警戒して小まめに下書き保存はするんだけど。今回は一気に書いていたため下書き保存してなかった。(前にやっていた別のはてなダイアリーでは一度も発生しなかったけど)

 また改めて書く気力が無いので、今は簡潔版だけ。あとで時間があったら書き直すかも。

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日本士兵覚醒聯盟本部

 もうだいぶ前のことになるが、山西省武郷県の王家峪八路軍総司令部記念館を見学に行ったついでに、そこから車で5分ほどの農村・棗林村にも行ってきた。ここは、八路軍総司令部直属政治処と「日本士兵覚醒聯盟」の本部が一時期置かれていた村だったからである。
 最近、突発的に「反戦同盟」について調べねばならないことがあったので、ついでに「日本士兵覚醒聯盟」本部の紹介もやっておこうと思う。


 「日本士兵覚醒同盟」とは何かと(超)簡単に説明すると、八路軍の捕虜になった日本兵のうち、日本の侵略戦争に反対するために日本軍に向かって反戦の呼びかけを行った人々が組織した「日本人民反戦同盟」というのがあるが、「日本士兵覚醒聯盟」とはその前身的組織である。
 「日本士兵覚醒聯盟」は1939年11月に山西省遼県(武郷県の隣県。今の左権県)の麻田鎮にて数名の元日本兵らを中心に組織された。続いて翌年の1月、うち3名の元日本兵捕虜が山西省武郷県(当時、八路軍総司令部のあった)王家峪村で八路軍に正式に加わっている。その後、このような組織は河北,山東,河南など広範囲に設立され、41年には「反戦同盟」という統一組織が成立する。


 その「反戦同盟」の前身である「覚醒聯盟」の本部が山西省武郷県の棗林村にあることを、私も王家峪の八路軍総司令部記念館を参観しに行った時にその展示を観て初めて知った。王家峪からそう遠くないように思えたので、チャーターした車の運転手に頼んで予定を少し変え棗林村に向かってもらった。


 武郷県は山西省の東南部に位置し、太行山脈の一角にある。山西の省都・太原市から黄土高原を貫く汽車に乗って3時間ほどかかる。八路軍総司令部のあった王家峪村へは、武郷県城(県の中心地)から車で山道をさらに1時間ほどかかり、棗林村はそこからさらに車で5分の距離である。
 田舎には違いないが、それでも太行山脈というすさまじい山岳地帯の一角にある村としては比較的開けていると思った。


棗林村の写真、運転手さんが写ってしまった。


 村まで来たもののたぶん八路軍総司令部のように記念館なんか残っていないだろうし、なにか目印になるようなものもありそうになかった。
 そこで中国人運転手さんがそのへんの村人をつかまえて「村で一番年取っている人」の家を教えてもらった。そしてその老人の家に行くと、わざわざ娘か息子嫁らしき女性に支えられて老人が門の外まで出てきて運転手さんになにやら話してくれた。私は対応を運転手さんにまかせほとんど喋らないようにしていたので村人たちが私を日本人だとわかったかは定かではない。


 老人が教えてくれた「その家」は村の小高い丘の上にあった。かなり急な斜面を登ってその場所へ向かう。・・・・・・って言うか本当に急だった。

丘に上がる斜面の途中から見た棗林村


 やっと上がりきった丘の上には比較的大きいが、いかにも古そうな一軒の家。丘の下の家々に比べても相当ボロい。


 ここが本当にかつて「覚醒聯盟」の本部であったかどうか、八路軍総司令部に展示されていた「覚醒聯盟本部」というキャプションがついた写真と比べてみる。


記念館に展示してあった「覚醒聯盟本部」の写真


同じアングルから撮った丘の上の家


 ・・・・・・うん、同一の場所だよね?

 どうやらここにはすでに別の村民が住居として使っているらしい。運転手さんが出てきた人に中を見学させてほしいと頼み、住民の女性は少し怪訝そうであったが庭にいれてくれた。現在の住人は「昔のことは知らない」とのこと。

なかなか広い敷地で、初期の「覚醒聯盟」の人々はここに暮らしていたのかと思うとなかなか感慨深い。
 後で資料で確認したが、当時(39年末)この家に暮らし「覚醒聯盟」成立の準備をしていた元日本兵捕虜は7名だったという。


 門から出て裏庭の崖から見える風景。おそらく戦争当時とそう変わらないと思うが、侵略戦争に反対するため、中国の寒村で祖国と対決する道を選んだ人々はどんな思いでこの風景を眺めていただろうか。この場所のことではないだろうが、「覚醒聯盟」=「反戦同盟」の一人は後にこう書いている。

 太行山脈の東端の峰に立つと、広漠たる河北平原が地平線のかなたまで見渡せる。それを目のあたりにしたとき、思わず郷愁をおぼえ、山をかけ下りて逃げ帰りたい衝動にかられたこともある。しかし、ともかくもふみとどまって自分の決心を反芻した。
 決心を行動にうつすことだけが、日本軍の蛮行にたいする中国へのせめてもの贖罪だ、というのがそのときの私の気持ちであった。また、日本兵士にたいし「馬鹿なことをやめよ」とよびかけて、彼らの蛮行を少しでも減らそう。新しく捕虜になってくる日本兵士にたいしては、同じ苦しみを味わった者として、新しい道のあることを知らせ、彼らの苦悩の過程を少しでもちぢめる手助けをしよう――そう考えたのである。(『八路軍日本兵たち』(香川孝志+前田光繁/サイマル出版)

八路軍の日本兵たち―延安日本労農学校の記録

八路軍の日本兵たち―延安日本労農学校の記録


 ところで中国のネットでこの村のことを調べたら、当時ここで暮らした「覚醒聯盟」の一人が2005年にこの村を再訪していることがわかった。ちょっと一部を(簡単に)紹介してみる。なお↓によれば、戦争当時この村も日本軍の「掃蕩」を受けて村人が殺されたり多数の家屋が焼きはらわれたようだ。

上到高坡顶,前田老人说,过去天天爬坡走这条小道, 新房是添了不少,但是整个样子还是变化不大。正说着话,一位白胡子老人拔开人群迎了上来,拉着前田的手说:“你认识我不?”前田端详了半天说:“记不起来啦。” 那老人急冲冲地说:“你忘了?过大年时我给你送过饺子,你怎么忘了?”前田说:“那时送饺子的人有好几个,你今年多大了?”老人回答:“77岁啦。”哦,那会儿你还是个小孩子呀。“对呀!你不记得我,我可记得你。”“啊呀,你可瘦了,个子也低了。”前田忙说:“对对对,老了瘦了,低了好几公分哩。”老人领着前田先生,慢慢走进一个独门小院,走到两间房的门前说:“这就是你住的房子,好好看看吧!”前田深情地抚摸着破旧的门,泥皮脱落的墙说:“是的,我在这里住了两年多,(略)当他得知这个枣林村的村民年平均收入只有600多元的人民币时,他的心情特别沉重,一个劲儿摇头叹息。(http://www.wuxiang.org/article/show.php?itemid=948

 険しい坂を上りきると、前田氏はこう言った。「昔、毎日この小道を登っていったものです。(村では)新しくなった家も多いが、全体としては大きく変わっていない」ちょうど彼が話している時、一人の白ヒゲの老人が群集の中から出てきて前田氏の手を引っ張って「私がわかりませんか?」と言ってきた。前田氏はゆっくりと考えたから答えた。「思い出せません」老人はたたみかけるように「忘れたんですか? 正月にあなたに餃子を届けました。どうして忘れてしまったんですか」前田氏「あの時餃子を届けてくれた人は何人もいました。あなたは今年何歳になりますか?」「77歳です」「ああ、なら当時まだ子どもだったんじゃないですか」「そうです! あなたが私を忘れていても、私はあなたを覚えています、ああ、あなたは痩せましたね。背も小さくなった」前田氏はすぐに答えた。「そうです、その通りです。私も老いて痩せました。背も何センチか低くなりました」老人は前田氏を連れてゆっくりと門の中に入り、ある二つの部屋の扉の前で言った。「ここがあなたの住んでいた部屋ですよ。どうぞごらんください」前田氏は感慨深げに古い扉や表面のはがれかけた壁を触り「そうです。私はここで2年余り暮らしました」(略)棗林村の年収が600元だと知った時、前田氏の気持ちは特に沈みこみ首をふってため息をついた。


 私が棗林村にたどり着いたのはまったくの偶然だったが、このような寒村も戦争につらなる歴史と不思議な縁がある。一枚の写真から探した「覚醒聯盟本部」をよすがとして、そのようなことが実感できたことは貴重な体験だったと思う。