順平県抗日闘争史[3] 1942年〜1943年

 『順平県志』における河北省順平県(当時の名称は「完県」)の1942年から43年にかけての抗日戦争について、年表の3回目。


 『順平県志』では、42年の出来事に入る前にこの年の状況を「1942年は抗戦始まって以来、最も苦しい一年であると同時に最も勝利に近づいた一年である」と総括し、「残酷な戦争に適応するため」党政各機関にて”精兵簡政”*1と”整風運動”*2と説明し、これを「今回の普遍的なマルクス・レーニン主義運動は各種の仕事の発展を推し進めた」と評価している。
 また公安局の動きとして「敵が強く我が方が弱いという情勢下」において「あまり目立っていなく、身分がはっきりしない*3幹部を両面政権*4の村幹部として配置」することによって情報収集などを行ったことを特筆している。




1942年 1月1日 
各区役所にて大規模な人員整理を行い、生産から離脱していた専門職員の多くを村に帰して生産に従事させるか、生産から離脱せず区公所の仕事をする”協助員”とする。


1942年 1月13日
 辺区委が『晋察冀辺区志願義務兵役実施暫行弁法』を発布。


1942年2月
 月初めより、県内の18歳以上50歳未満の男子全員参加で冀中*5への大規模食糧輸送を行う。


1942年 2月12日
 『晋察冀日報』にて『関于抗日根拠地土地政策的決定』を発表。統一戦線の観点から、地主へ払う小作料軽減を図ると同時に、定められた小作料は払い地主の利益を擁護することとする。


1942年 春
 従来の県大隊を第7区隊に編成し、完県城*6攻略作戦が行われる。その後、各区小隊から人員を選び、新たに県大隊を編成。
 日本軍は山区と平原区の連携を断つために、域内三番目となる封鎖線を造る。この封鎖線は東は満城県から西は唐権境に至る*7。県内に21のトーチカを設置し、その周囲には深い溝を掘って橋をかけて外と行き来できるようになっていた。ここから日夜「掃蕩」を繰り返す。


1942年 4月
 中共中央宣伝部から「整頓三風」の学習指示が出され、ここより完県でも整風学習委員会が成立し、整風運動が開始される。
 全県で大規模な封鎖線破壊作戦が行われる。出動した民兵8千人前後。特に新しく造られた三番目の封鎖線の破壊に力を入れ、根拠地と冀中区*8の連携を保とうとする。


1942年 5月1日
 日本軍、兵力5万を動員し冀中区*9に対し空前の大掃蕩を行う(5.1大掃蕩)。冀中区の主力部隊は、完県や唐県に撤退。*10


1942年 5月20日
 冀中区軍民の反掃蕩戦を支援するため、三分区二団と第七区隊が日本軍占領下の完県城を奇襲し、日本軍中隊長以下82人を殺害し、食糧1万5千キロを奪回する。


1942年6月
 軍区の主力部隊と県大隊が日本軍・偽軍を待ち伏せ攻撃
 武装部がトーチカ周辺の村から人を選び銃の特訓を行わせる。訓練終了後、彼らはトーチカの見張りへの狙撃を行い、日本軍偽軍は昼間に見張りを立てることができなくなる。


1942年 夏
 全県で大規模な開墾や生産運動。
 華北連合大学文工団*11が、『陸文竜』『亡宋鑑』などを上演。内容は南宋の英雄たちが金に抵抗*12した話である。
 全県でソ連スターリングラード防衛戦勝利の慶祝活動が行われる。


1942年9月
 中共中央北方局及び晋冀察軍区の高級幹部会議が開かれ、反”蚕食”*13闘争の戦略が決定される。会議後、主力部隊と地方部隊からの人選で武装工作隊*14を組織し、「敵後の敵後に深く入り込み、敵の心臓部へと迫」っての反”蚕食”闘争が行われる。


1942年 9月24日
 雲彪支隊の一小隊及び区幹部、県武装部部長、区長など30人の幹部が敵占領区での工作に向かうが宿泊した村で親日村長らの密告に遭い、25日に80名余りの完県特務隊に包囲される。包囲突破の過程で小隊長や区幹部など8名が犠牲となり、区長が囚われる。


1942年 秋
 辺区委員会が完県に130万キロの公糧*15の納税任務を課す。当時、平原部が占領されているため完県の食糧事情は逼迫していたが、農民らは食事を節約し期限までに完納する。


1942年 12月
 指導の一元化を図るため、県工人救国会,農民救国会,婦女救国会,青年救国会,文化救国会,医療救国会などを県抗日救国聨合会(抗聯会)へと統合する。
 また太平洋戦争の勃発に伴い敵への政治工作を強化するという北岳区の指示に基づき、県文化救国会は”文化軽騎隊”を組織し、敵拠点付近で宣伝品を巻いたり抗日標語を書いたりなどの活動を行う。
 県公安局は白北庄西のトーチカで二名の偽警察を捕らえ、三八銃二丁と弾丸180発を確保する。


1942年 冬
 偵察により県城の敵兵力が手薄になったことを知った第三分区第二遊撃隊が完県城を急襲。



1943年 1月15日〜21日
 阜県にて第一回晋察冀参議会が開催。1940年8月に中共北方局が提出した『双十綱領』が辺区政府の施政綱領として定められた他、『辺区租佃債息条例』『辺区志願義務兵役制的実施弁法』『辺区統一累進課税税則及其施行細則』などが制定される。


1943年 1月〜2月
 軍区所属の騎兵団,二団,冀中十八団,県大隊の中から教養があり、日本語が話せ、党の政策をよく理解する幹部らが選ばれ、賈庄にて敵後武工隊が組織される*16


1943年2月〜3月
 ”精兵簡政”の精神に基づき、公的機関の人員をさらに削減。


1943年3月
 県公安科警衛隊20名が便衣で日本軍が盤居する北城村に潜入。日本三騰洋行*17の大型トラック一台、ラバ二頭、抗日根拠地で不足の塩や日用雑貨などをトラック一台分を奪取する。
 八路軍騎兵団が駐屯する斉各庄の近隣にある馬各庄に陣取り、斉各庄の騎兵団を消滅させようとする。遊撃隊が斉各庄の対日協力者を捕らえ情報源がなくなった日本軍は十数日後に目的を達せぬまま完県城に戻る。


1943年春
 千人余りの日偽軍が南釣台を包囲。同村の青年抗日先鋒隊と遊撃隊は地雷と手榴弾を用いた戦術で抵抗。日偽軍は70人余りの戦死者負傷者を出して撤退。遊撃隊側に戦死者無し。


1943年5月1日
 日本軍、晋察冀三分区に大規模な「掃蕩」をしかける。と同時に、完県に対しても7日7晩にわたる攻撃を行う*18。軍民は遊撃戦,雀戦*19,地雷戦で対抗。


1943年5月2日
 完県の民兵と遊撃隊、南峪村に侵攻した敵に奇襲をかける。敵は逃亡し、その際に雑囊,電話線などを遺棄していく。


1943年5月3日、4日
 敵は2日間連続で賈各庄に対し攻撃を行う。


1943年5月5日
 県大隊50人と県公安科警衛隊、機関銃一丁,擲弾筒一門を携えて待ち伏せ攻撃をしかける。


1943年5月7日
 日本軍は野場にて民衆を包囲し、大虐殺を行う(野場惨案)*20


1943年5月8日
 日本軍撤退。
 完県は春季大掃蕩を粉砕するものの生産に深刻な破壊を受ける。さらに干ばつにより山岳部の生活はますます困難になる。毛沢東の「自力更生」を合言葉に大規模な生産運動が行われる。また、県政府は1941年に私商人から没収した5万キロの食糧を各地に分配し、食糧問題の解決をはかる。


1943年6月
 政府、被災農民に紡績業への参加を呼びかける。合作社が原料の綿花を供給し、完成した布などを合作社に収めて賃金を得るシステム。被災農民は争って参加し、月末には総額25万元の収入を得る。


1943年7月
 野場惨案を忘れないために李劫夫が歌曲『忘不了』を作る。
 太平洋戦争のため日本軍の人員が不足している機会をとられ、敵工*21幹部を敵内部に侵入させる。また完県,唐県,望都県が連合し2000人の民兵を動員して封鎖壕と日本軍交通線の破壊を行う。
 遊撃隊小グループは斉各庄一帯を「掃蕩」に来た日本軍を手榴弾で攻撃し、日本軍の車一台を焼き、三八銃一丁を手に入れる。一方、敵工部長,三区治安員,二支隊の一部戦士が塔山坡の敵拠点を攻撃し、偽警察三名を生け捕る。


1943年9月24日
 偽軍3000名が県城への撤退途中、斉各庄にて遊撃隊の地道戦による猛攻撃を受ける。戦闘終了後、区遊撃隊隊長・斉全力と区治安員の斉希古は「文武両道幹部」の称号を贈られ、併せて区群集英雄大会に出席する。


1943年冬
 県委と県政府は大会を開き、日本軍の罪行を明らかにする。張君朴が『復讐の炎』という小冊子をまとめ、南下邑の戦闘英雄・馮振民と小掌村の労働模範・趙志潔の事跡を紹介し、群衆の抗日と生産への情熱を大いに盛り上げる。

*1:軍事面では日本軍の高度分散配置によって大部隊による大規模作戦が不可能になったため、人員を整理し軍の規模を縮小。軍から解除された正規兵は地方軍または民兵などに回され、生産に従事させながら小規模な作戦を行わせた。また政治面では抗日根拠地などの肥大化複雑化した行政組織を人員整理や部門統合によって簡素化し、仕事に不適合なものや汚職幹部を追放した

*2:抗日戦争開始後、中国共産党は主に都市部からの知識人を含む大量の新党員を獲得したが、そのため党内で各種の矛盾も発生し、特に毛沢東派と王明らソ連派の対立が深刻であった。そのため毛沢東が展開した党内思想を統一するための教育運動が整風運動である。これは共産党の抗戦体制を強固にした面もあるが、同時に毛沢東の独裁への萌芽や後の文革に繋がるような粛清も行われた

*3:敵に共産党員or抗日闘士と暴露されていない

*4:日本軍が優勢な地域の民衆は表立って抗日闘争が出来ず、村には日本軍と傀儡軍によって親日政権が作られた。しかし、共産党は表向きは親日政権の村に密かに抗日政権も樹立し、親日政権と共存させた。抗日政権は親日政権に秘密の場合もあるが、たいていの場合、両者は協力して村を運営していた。例えば昼間に日本軍が村を訪れる時は日本軍が選んだ親日村長が応対し、夜になると抗日村長が村人を組織して抗日活動をする、という具合である

*5:河北中部

*6:完県の中心都市、日本軍の占領下にある

*7:満城県は順平県=完県の東北部と隣接し、唐県は西南部と接する。そうだとすると、この封鎖線の長さは直線にして30キロほどとなる

*8:河北中部。そのほとんどが平原区である

*9:河北省中部、大平原地帯

*10:この5.1大掃蕩により冀中区の部隊は壊滅する

*11:文芸工作団。演劇や歌を通じて民衆に抗日を宣伝する

*12:南宋漢民族王朝、金は北方から中国に侵攻して来た異民族国家である

*13:”蚕食”とは、抗日と共産党の安定した基盤であった抗日根拠地を不安定な遊撃区に、そして不安定ながらも完全には占領されていなかった遊撃区を占領区へと変えるべく日本軍が行った一連の戦略行動を指す。

*14:日本軍偽軍の占領区または半占領区で活動するために組織された少人数の特殊部隊。民衆への抗日宣伝や敵小部隊への攻撃、スパイ・対日協力者の粛清などを行う

*15:部隊や政府が使用する公の食糧。当時の税金と言える

*16:この武工隊員の中にあとに作家となる馮志がいた。彼は新中国成立後、自分と戦友たちの活動ほぼそのまま小説化した『敵後武工隊』という小説を書き、これが大ヒットしたために数ある武工隊の中でも完県賈庄で組織されたこの武工隊が最も有名なものとなた

*17:洋行とは日本軍が経済活動のため占領地に進出された半官半民の企業。華北の物資の収奪やその売買に関わった

*18:「なぜなら当時晋察冀軍区供給部門,軍区衛生機関,三区供給部門,後方医院の負傷者がすべて完県にあったからである」

*19:2、3人の小グループがヒット&ランな攻撃を交代で延々としかけ、敵を疲労させ弾丸を消耗させる戦術

*20:『順平県志』の別項、「日偽暴行」によれば、日本軍は住民を一箇所に集め八路軍の情報を提供するよう迫った。住民がこれを拒否すると機関銃掃射などで118人を殺害。54人に重傷を負わせた。

*21:対敵工作科