「あなたはなぜ八路軍に参加したのですか?」

 今年も7月7日、盧溝橋事件=日中全面戦争勃発の日がやって来ました。・・・・・・残念ながら記事を7日にあげられなかったのですが、日付操作して7日にあげたことにします。
 そういう特別な日企画ということで、今回は八路軍兵士たちの「参軍動機」について分析してみたいと思います。




 実は日中戦争体験者に聞き取り調査をしているのですが、そのうち八路軍に参加したことのある老人たちに必ず聞く質問があります。


 それは、「あなたはなぜ八路軍に参加したのか?」ということ。


 八路軍は基本的に志願制なので、参加するにはなんらかの自主的な動機が必要となります。また、個々人の八路軍経験を調べていく上で、「なぜ参加しようと思ったか?」はすべての出発点であり根幹となる質問と言えるでしょう。


 というわけで、今まで聞き取りをした元八路軍参加者19人の参加動機を簡単に分類してみました。
 ただ、聞き取り自体は終わっているものの、私自身もまだその内容を正確に把握していない段階です。正確に把握するためには

  1. 通訳同伴で聞き取りをする
  2. 録音テープを中国人*1に聞いてもらって、通訳や同席者の発言も含めて一字一句正確に書き出してもらう
  3. 自分で簡単に話題ごとに箇条書きで翻訳しておおまかな内容を掴む(これで二回目の聞き取りを行うことができる)
  4. 話した通りに翻訳する
  5. 日本語を理解する中国人に原文と4の翻訳を見比べて誤訳が無いか確認してもらう


の五段階が必要となり、これがすべて終わってこそ「正確に内容を把握して」ということになります。
 しかし現段階ではほとんどが「1」の段階にあり、良くても「3」の段階。つまりほとんどが聞き取り現場で通訳が話してくれた内容しか把握できていないということになります。現場での通訳が訳してくれた内容は、通訳の能力に関係無くあくまで暫定的なものでしかありません。現場で聞き取り対象とやり取りするための最低限の情報と捉えておくことが適切であり、たまに通訳自身の価値観が多少反映されているのではないかと疑う場面もごく少しですがありました。


 また、ほとんどの人にとって参加した理由はいくつかあり、それらが絡まりあって「参軍動機」を形成しています。しかし、以下ではその中で最も強力と私が判断した理由を一つだけ選んで分類することにしました。
(あと・・・・・・時間が無いので年齢や参軍時期を確認しないで記憶だけで書いています。これが一番正確じゃないかも)


 そういうわけで、以下の分類もあくまで暫定的なものであり、かつやや単純化したものであります。よく内容を整理すればまた変わってくることもあるかもしれません。その点をふまえて読んでいただきたいです。
 なお()内は(参軍年齢/参軍時期/参軍場所)です。



参軍理由の簡単な分類


1、親族または故郷が日本軍による被害を受けたため 7人
(日本軍による具体的な被害の発生が参軍の大きなきっかけとなったケース。注目すべきは「救国」や「上級者に気に入れられて」に分類した人の中にも親族が日本軍に殺害されたことがある人がおり、それは聞き取り対象者19人中6人におよぶ。それでも彼らはそのことが参軍の主たる動機とは結びつけて話しはせず、また親族に被害があった場合でもその「復讐」のため参軍したとしたと明言した人は一人しかいなかった。代わりによく語られたのが被害の発生・目撃によって「生き延びるためには戦うしかない」ことを自覚した点であり、3人からほぼ同じ言葉が語られた)


・「近くの街に駐屯していた日本軍がしょっちゅう村を荒らしに来て、家畜は全て奪われていった。牛がいなければ農民は生きていけない*2。日本軍と戦うことだけが唯一の生き延びる道だった」(19歳/1944年/山西)
・「近くに日本軍の拠点(トーチカ)があり、自分の村は大きな道路に面していたこともあって、日本軍がよくやってきては物を略奪し婦女を強姦していた。そういう状況を見て、抗日に参加することにした」(18歳/1938年/河北)
・「長兄の敵討ちのため。日本軍が村民20人余りを廟に閉じ込めて火をつけ焼き殺したことがあるが*3、自分の長兄はその被害者の一人だった」(19歳/1945年/山西)
・「日本軍が自分達にひどい仕打ちをするから。自分も民工として労働に連れて行かれたことがあるし、その途上で日本兵たちは気ままに民家に押し入っては夫を追い出してはその妻を強姦するのも目撃した。このような状況にたいへん怒りをもっていた」(22歳/1945年/山西)
・「日本軍が反抗的な小学校教師たちを集めてそのうち13人を殺害したことがある。その中に自分の叔父もいた。このことは自分にたいへんなショックを与え、抗日に参加することに決めた。家族が参軍を反対していたので、隠れて村を出た」(15歳・女性/1944年/山東
・「日本軍が自分の村を砲撃し、妹をはじめ多数の村人が死んだ。祖母もそのショックで亡くなった。こういうことがあって、生きるためには戦うしかないと思い、参軍することにした」(16歳/1938年/山東
・「日本軍が自分の村に拠点(トーチカ)を作り、しょっちゅう村から略奪していった。自分の祖母も殺された。生きるためには日本軍と戦うしかないと思った」(18歳/1944年/河北)



2、救国のため 5人
(本人が「救国のため」と明言し、かつその他に強烈と思われる理由が無い場合。「1」と異なり、参軍前に自身や家族,周囲の人々が日本軍による具体的な被害を受けていない場合がほとんどであった)


・「日本が中国を侵略をしたから」(13歳/1938年/河北)
・「北京の女学校に通っていたが、北京が日本軍に占領され、自分の好きだった学校も接収されるのを見て抗日の意識に目覚めた」(14歳・女性/1938年/河北)
・「国家が自分を必要としていると感じたから」(18歳/1944年/山西)
・「1937年、戦争が始まる前に東北に出稼ぎに行き、そこではソ連の放送が聞けた。日本はソ連の放送を妨害することが出来ず、自分はいつも隠れて聞いていて戦争の状況や八路軍の活躍ぶりを知り、また実際に東北で日本人は横暴だったので、三年の年季が明けて故郷に帰るとすぐに参軍した」(17歳/1940年/山東
・「祖国の防衛のため」(18歳/1942年/河北)



3、生活苦・食糧難のため 3人


・「1937年、蒋介石は日本軍の侵攻を阻止するため黄河の堤防を爆破して洪水を起こし、自分の故郷は大きな被害を受けた。洪水によって土地が荒廃し、さらに40年から42年(訂正:42年から44年)にかけて毎年大規模な干害や水害、蝗害が起き、多くの民衆が餓死した。自分の父も餓死し、母は幼い妹を連れて難民になりその途上で死に、自分は姉の嫁ぎ先に身を寄せた。しかしいつまでもやっかいになっているわけにはいかないので遊撃隊に参加した」(16歳/1945年/河南?山西?)
・「結婚のため都市から故郷の田舎に戻ったが、適当な仕事が無かったため軍に入ることにした」(18歳?/1944年/山西)
・「1942年にひどい干ばつがあり、食べるものが何もなくなった。軍に入れば少なくとも食べられるだろうと思い参加した」(17歳/1942年/山西)



4、上級者に気に入られたため 2人
(これは「動機」というより「きっかけ」であり、直接的には党や軍幹部の勧めによるものだが、本人も進んでそれを受け入れている場合である)


・「県城に住んでいたが日本軍に占領されたため、農村に避難していた。そこで抗日政府の仕事見習いをしていたが、よそから占領地地下工作の幹部が来て、占領地に住んでいた自分に都市工作の仕事をさせる目的で自分を抗日軍政大学に入れて学習させた。これは自分にとっても良い機会だった」(15歳/1943年/山東
・「八路軍のカメラマンが真面目で困難に良く耐える農村の少年の中から助手を捜しており、自分はその一人として選ばれ八路軍に入った。元々軍人になりたかったのに村の幹部からは教育関係の仕事をするように言われていたから、これは自分にとってもいい話だった」(15歳/1944年/河北)


5、入らざるを得ない状況だったから 1人


・「村の規模に合わせて参軍人数が割り当てられた。息子が一人だけの家庭は除外されたが、三人くらい兄弟がいれば一人は参軍させなければいけない。自分は孤児だったが、村の幹部が毎日説得に訪れてとても断れる状況ではなかったから参軍した」(15歳/1945年/河北)


6、その他 1人


・「勉強が嫌いで成績も悪かったから先生によく殴られ、学校に行くのが心の底から嫌だった。そんな時、八路軍の宣伝隊が来ていて学校よりおもしろそうだと思い、家族にも黙って彼らについていった」(12歳/1937年/山西)


 ちょっと強引に分類した感もありますが、だいたいこんな感じとなりました。

*1:方言や地名の問題があるのでなるべく聞き取り対象者と同じ地域の出身者が望ましい

*2:当時、中国の農村では畑を耕すなど牛は農業になくてはならない存在だった

*3:これは山西省盂県で起こった「上僕頭惨案」のことである。「上僕頭惨案」については日本語でも創土社の『黄土の村の性暴力』にて中国側資料『盂県文史』の記述を翻訳したものが読める。