小さな奇跡

 前のエントリーは諸事情により削除しました。
 今回は研究活動をしていて出会ったささやかな奇跡について(極めて個人的な話です)



 老人たちの聞き取りをやっていてしばしば困るのが「地名」。
 老人たちの中には文字を読めない、またはほとんど漢字を知らない人もいる。そうすると地名の漢字の断定ができないことがあり、それはそのままその場所がどこなのか探し出すことができなくなるということにつながる*1


 ・・・・・・・・・・・・いや、実際には地名の発音からだいたいの漢字を推量しその他の証言情報から場所のあたりをつけて地図から根気よくそれらしい村を探していく、という方法もあるが、これがなかなか見つからないし、それらしい場所が見つかったとしてもそれが本当に正しいかどうかはわからない*2


 A省で元軍人であったある老人に聞き取りをした時も同様の問題が発生した。
 その老人が所属していた部隊(ここではC団としておく)がある場所で日本軍の包囲を受け大損害を受けるということがあった。1942年5月のことだった。老人の話によるとその場所は「ma-fu-tai*3(マーフータイ)」という場所だという。
 老人のその他の証言からその「ma-fu-tai」がA省B県を流れるD河の畔にある村だろいうのはわかった。しかし、あまり漢字を知らない老人は「ma-fu-tai」の漢字がわからない。
 私に同行した通訳は「馬(ma)福(fu)台(tai)」ではないかと推測した。なるほど、いかにもありそうな地名である。老人も漢字を示されて、たぶんそうではないかと答えていた。
 ともかくその場所で起きたことの話はなかなか重要そうだったし、当の老人も深く印象に残していたようだったので、私も「馬福台」の正確な場所を調べるつもりであった。しかし、当時はA省の大雑把な地図しか持たず*4、「馬福台」なる地名を見つけることはできなかった。


 「馬福台」のことが心にかかったまま、なかなかB県の地図を調べられなかったある日、研究とは別に観光目的でA省のとある農村に立ち寄った。以前から行こうと思っていたが、なかなか行く機会が得られなかった場所だ。
 村の中には同村より出征し戦死した人々を記念する小さな資料館があった。中には戦死者たちがいつどの場所で戦死したかを示す一覧表があった。その中の一人の説明に目が止まった。


「C団所属。1942年5月、B県馬阜才にて戦死」


 これだぁぁぁぁぁーーーーーー!!!!!


 「馬阜才」は中国語で「ma-fu-cai(マーフーツァイ)」と読む。老人が言ったのは「ma-fu-tai」だが、ピンインで「c」か「t」かの違いである。このくらいは記憶の誤差範囲と言えるだろう。「fu」の漢字も異なるが、中国で「福」と「阜」は同じ「fu」の発音である。老人と同じ部隊の戦死したその人の戦死場所も当該部隊が大損害を受けた時期そして県と一致する。


 その後すぐ、B県の詳細な地図が手にはいり確かめてみたところ、確かにB県D側の畔に「馬阜才」という地名が存在していた。
 もちろんB県の地図を手にいれたなら詳細に見ていけば「馬福台」が「馬阜才」だと言うのはわかったかもしれない。だが頭の中には「ma-fu-tai」という発音が入っていたのだし、一文字漢字が違う地名というのはよくある。地図上で他の条件(D側の畔)があっていても果たしてこの「馬阜才」が老人の証言と同じ「馬福台」であるかどうかは確証できないのだから、私は「『馬福台』という場所は確認できず」と結論するしかなかったであろう。
 偶然にも立ち寄ったある農村の記念館で老人と同じ部隊の戦死者の記録と出会うことが出来たから、私は「馬阜才」が老人の証言における「馬福台」と同一であることを知ることができた。


 私がこの農村に立ち寄ったのは別に研究活動のためではなく、単なる観光であった。しかも当初の予定ではあの老人の聞き取りに行くより前に行くことも考えていた。もし私が聞き取りの前にかの農村を訪れていたら、たとえ戦死者名簿を見ても特に記憶に残していなかっただろう。老人の聞き取りの後で、「馬福台」のことが心にかかっていたからこそ戦死者名簿の記録が意味を持ったのである。


 あの時の一種の不思議な感覚は忘れようもない。たまにこのような「奇跡」に出会えるから、研究活動というのは喜びと驚きに満ちている。

*1:もちろんそれが県の名前ならすぐに特定できるが、問題は村の名前

*2:ちなみにこれは広範囲を移動する元軍人の老人などに聞き取りをした場合に問題になる。農民などだと基本的に自分の村とその周囲しか行動範囲が無いから、よそから移住してきた者以外はあまりこういう問題は発生しない

*3:ピンインです

*4:いや、それなりに詳細だったのだが、各県の村名がすべて載っているようなものではなかった