晋冀豫抗日根拠地

※注:未完成バージョンをあげていましたが、完成したのでそちらをあげます


 ・・・・・・難しいのに挑戦してみる!

晋=山西省
冀=河北省
豫=河南省

なお引用部分の()内は原文にはないブログ主の補足です。

晋冀豫抗日根拠地

概要

関連部隊:一二九師、一一五師三四四旅、山西抗日決死第一縦隊および第三縦隊
所在地山西省、河北省、河南省
範囲

 東の境は平漢鉄道*1で、冀魯豫区*2とつながっている。西の境は同甫鉄道*3で、(晋察豫抗日根拠地の)西北部は晋绥区と接している。北の端は正太線*4であり南の境は黄河までで、晋東南(山西省東南部),冀西(河北省西部),黄河の北側の豫北(河南省北部)の一部を包括する。【P134】

根拠地を構成する地区:太行区,太岳区の2つの大戦略
面積
人口、県数、兵力91県の県を有し、うち59県は県城を有する*5
(晋豫冀魯辺区としては、人口は700万人*6
備考

ここは、太行山脈が西から北に走り、海抜1500Mから2000Mの高く険しい山が林のごとく連なっている。区域内には、炭鉱,鉄鉱,硫黄などの鉱山が比較的多い。晋東南(山西省東南部)の濁漳川沿岸の上党盆地は「穀倉川」と称される。遊撃戦を展開するには理想的な地であった。*7


沿革

1938年1月:冀豫晋省委成立。太行区と太岳の党組織の活動を統括する。(党関係) 
注意:この時点ではまだ太行区も太岳区も根拠地ではないが、党は活動していた。根拠地が出来た、と勘違いしないこと。また名前が「冀豫晋」となっているが誤りではない。
1938年2〜3月:この頃、太行区の基礎ができあがる。
1938年4月:晋冀豫軍区成立(軍事)
1938年5月:・冀南区の建設が始まる。
・冀南軍区成立(軍事)
※この時点で「晋冀豫軍区」と「冀南軍区」はべつの指揮系統。
1938年8月:冀豫晋省委が晋冀豫区委員会に改称される(党関係)
1940年春:山西新軍抗日決死第一、第三縦隊によって太岳区が建設される。
1940年4月:中共北方局が黎城会議を開く
太岳区を独立させる。太岳軍区と太岳党委を設立
注意:つまりそれまでおそらく太行区の一部であった地域を「太岳区」としたということだろう。新たな土地を獲得したわけではないと思われる。また「太岳区」が晋冀豫抗日根拠地の範囲からはずれたわけではない。
1940年8月:・冀南・太行・太岳行政弁事処が設立。(略称:冀太聯弁) 
(行政)
晋冀豫辺区の最高政権機関
晋冀豫辺区を太行,太岳,冀南の三つの行政区に区分する。前後して各区に軍区と区党委が成立。
1941年3月:晋冀豫辺区政府が正式に成立(行政)
※今まで出てきた晋冀豫辺区には「政府」はなかった? 「冀太聯弁」が政府を代行し、この時点で正式に辺区政府ができたということか?
1941年4月:魯西(山東省西部)区を編入。そのため晋冀豫辺区政府は、晋冀魯豫辺区政府へと改称される(行政)
1942年9月:中共北方局太行分局成立(党関係)
→晋冀豫(=太行)区、太岳区、冀南区、晋豫区の区党委を統括。
1942年10月:・晋豫区は太岳区に合併される。
・冀魯豫区も太行局の管轄下にする。
1943年10月:・太行分局の取り消し。太行分局の下にある太行区,太岳区,冀南区,冀魯豫区の区党委は中共北方局の直接指導下に入る。(党関係)
1945年8月:晋冀魯豫中央局、および晋冀魯豫軍区成立
→・晋冀豫抗日根拠地の太行,太岳の2行政区と冀魯豫抗日根拠地の冀南,冀魯豫の2行政区を含み晋冀魯豫解放区の基礎となった。
晋冀豫抗日根拠地は、途中で冀魯豫抗日根拠地と合併して、晋冀魯豫抗日根拠地に変わっていた!


太行区(晋冀豫抗日根拠地を構成する二つの戦略区の一つ)

関連部隊:一二九師
所在地山西省河南省、河北省→山西省河南省および山西省と河北省の省境にある太行山脈とその周囲
範囲

正太鉄道*8の南、平漢路*9の西、白圭‐晋城路((山西省中央部の晋中市祁県白圭と山西省南端の晋城市を結ぶ道路))の東、黄河の北に位置する。(p139)

面積
行政上の構成(名称):1.晋東南2.豫北3.冀西
※以下、著名な地域および根拠地の範囲を把握する上で目印になる県名をメモ
1.晋東南:大谷県*10,武郷県*11,陵川県*12(晋東南区の南端),黎城県*13,平定県*14(陽泉市の近辺)他→すべて山西省
2.豫北:博愛県*15,湯陽*16、他→河南省、武安市*17、他→河北省
3.冀西:磁県*18(冀西区の南端),邢台市*19,石家荘*20→すべて河北省
人口,兵力,県数:53県を有する。その中心地区に約280万人、遊撃区には180万人*21
備考

太行区は八路軍総部と北方局の所在地であり、華北遊撃戦争の心臓部にして中枢であった。(P139)


沿革

1937年11月:一二九師、太行根拠地の建設を決議
1937年12月:山西省中部(晋中)、太行山脈南部(太南)、河北省西部(冀西)の三地区を含む太行抗日根拠地を創設。
1938年4月:一二九師、晋冀豫軍区を成立させる(対外的な呼称は、一二九師の後方司令部)。下に五分軍区を設ける(対外的な呼称は、支隊)。(軍事)
1938年5月:河南省北部(豫北)に抗日根拠地を建設
1938年12月:晋冀豫軍区の対外番号を晋冀豫遊撃司令部に改称(軍事)
1939年7月:・日本軍の攻撃によって太行区が東西に分断。
注:太行山脈一帯の地域と太岳山(山西省南部)一帯が分断されたということ
・日本軍の攻撃によって太行山脈の根拠地が南北(太北と太南)に分断
1939年7〜8月:前後して太南軍政委員会と太北軍政委員会が成立
※太行山脈が南北に分断されたため、二つの地区をそれぞれ成立させた。
1939年秋:晋冀豫遊撃司令部を晋冀豫辺遊撃縦隊に改称。(軍事)
1939年12月:太南区と太北区の統合に成功
※これで再び太行山脈は一つの地区(太行区)になった
1940年4月:黎城会議にて太岳区の成立を決定する
※分断された太岳山一体の根拠地を太行区に統合できないため、別の地区とした
1940年6月:晋冀豫辺遊撃縦隊を取り消し、太行軍区が成立する下に5軍分区を設ける。(軍事)
1943年9月:太行区の党・政・軍の統括形態は以下の形になる
・党→太行区党委。中共晋冀豫区党委が前身。下に8つの地委を設ける。中共北方局に直接指導される。
・軍→太行軍区。下に8つの軍分区を設ける。
・政→晋冀豫魯辺区政府の直轄区。区内に8つの専区を設ける。


太岳区

関連部隊:一二九師,抗日決死第一縦隊
所在地山西省河南省山西省は太岳山を中心とする南部一帯、河南省山西省黄河に隔てられた省境一帯。
範囲

抗戦初期、その根拠地は同甫鉄道と晋白鉄道および臨汾‐屯留路(山西省南西部の臨汾と南東部の屯留路を結ぶ道路)の間にある三角地帯にはさまれていた。(P157)

→つまり山西省南部

抗戦勝利時には、同甫鉄道の東、白晋路の西、黄河の北の境とする広大な地区に拡大していた。(P157)

→河北省も含まれる
面積
行政上の構成(名称):1.太岳区2.晋豫区
※つまり「太岳区」というのは、「晋冀豫抗日根拠地」を構成する二つの地区の一つの名称であるとともに「太岳区」を構成する二つの地区の名称でもある。なので<晋冀豫抗日根拠地の太岳区>という場合、<太岳区と晋豫区の双方を含む>ということ。
 太岳区と晋豫区は、曲沃‐高平公路((山西省西南部の曲沃県と東南部の高平県を結ぶ道路))を境として分けられ、それぞれ下に以下の区を持つ。
1.太岳区:
・岳北区(抗戦初期、その根拠地は同甫鉄道と晋城‐白圭公路および臨汾‐屯留路*22の間にある三角地帯にはさまれていた)
・岳南区(臨汾‐屯留路の南,曲沃‐高平路*23の北,同甫鉄道の東,白圭‐晋城路の西。臨汾(臨汾市の中心地区?),曲沃県,長子県*24,高平県,浮山県*25など)
2.晋豫区:
・中条区(岳南区に連なり、曲沃‐高平公路の南、黄河の北、晋城‐沁陽*26公路の西,翼城県*27の東の地区。晋城(晋城市の中心地域?),翼城県,済源県*28
・条西区(曲王‐高平公路の南、黄河の北,垣曲*29の西の地区)
・豫北(坡頭鎮*30の東、垣曲県の西、王屋山*31の北、黄河の南)
・汾南区(同甫鉄道の西、汾河の南の地区)
人口,兵力,県数:38県を有する
備考

沿革

1938年春:晋豫辺区の根拠地建設が始まる
1939年春:太岳,晋豫の二つの根拠地が形成される。太岳区は太行区とともに晋冀豫区を形成。
1939年7月:日本軍の攻撃により、太行地区と太岳区が分断される
1940年1月:晋西事変後の談判により、八路軍は岳南区(太岳山南部)と晋豫区から撤退。臨汾‐屯留公路の北の岳北区のみに駐屯。二地区の党組織は地下にもぐる。
1940年4月:中共北方局黎城会議に前後して、太岳区党委成立(党関係)
1940年5月:太岳区を正式に独立した戦略区とする
注:太行区から分離したのであって、晋冀豫抗日根拠地を構成する地区であることに変わりはない。
1940年6月:太岳軍区成立(軍事)
1941年6月:岳南区を太岳区に含める(5月の中条山戦役に伴って、同地区が空白地帯となったため)
1942年1月:中条山地区に根拠地を建設し始める。
1942年4月:済源県に豫晋辺区人民抗日聯防区ができる。
1942年10月:太岳区党委と晋豫区党委が合併し、太岳党委となる(党関係)
1943年3月:豫晋辺区人民抗日聯防区が太岳軍区に合併
1943年5月:条西区を太岳軍区の第5分区とする。ただし、情勢は不安定。
1944年6月:豫北に根拠地を建設し始める
1945年初:条西の根拠地がほぼ固まる。
1945年2月:汾南区を第5軍分区の一部とする。



とりとめない雑記

 やっと晋冀魯抗日根拠地まで終わった(のか?)。このへん、かなり混乱していたので整理できて良かった。
 たとえば「晋冀豫」抗日根拠地が途中から山東省(魯)地区も含んで、「晋冀魯豫」抗日根拠地に成っていたとは! びっくりした。どーりでいろいろごっちゃにしていたはずだ。
 たとえば中国の古典的な抗日根拠地研究本に「一個革命根拠地的成長:抗日戦争和革命戦争時期的晋冀魯豫辺区概況」という本がある。しかし文献などを読んでいると「晋冀豫」という名の抗日根拠地の方が目につく。じゃあ「晋冀豫魯辺区」って何?ってなる。ここで「晋冀豫」と「晋冀魯豫」がほぼ同一の場所を指すことを理解していないといけなかったんだな。
 
 また「太行区」も混乱を助長する。
 私は太行区とは独立した根拠地かと思っていたが、実際には「晋冀豫」および「晋冀魯豫」抗日根拠地(辺区)を構成する一地域だったとは。
 だが「太行区、または晋冀豫区とも称される」(!)*32とあるように、太行区が晋冀豫抗日根拠地そのものと見なされる場合もあるようだ。これは、今後要注意。

 と言うようなことがあるのも、太行区はある抗日根拠地を構成する一地区に留まらない特別視される地区であり、しばしば「晋冀豫抗日根拠地」の構成地区ではなく、単独で取り上げられるからだ。
 まず抗日戦争の最中、八路軍の総指揮部と華北の抗戦を指導下中共北方局が太行区にあり、八路軍の抗戦の中枢部であった。
 戦後も太行区は特別視され、(私はまだ見ていないが)「太行山上」という映画が作られ、また根拠地研究本でも「我們在太行山上」というスローガンが強調されるなどして、八路軍は太行山区を確保したことを抗戦の重要なポイントと強調している。
 また、オーストリアの著名なトウ小平研究家が書いた『中国革命的太行抗日革命根拠地社会変遷』によれば、80年代にトウ小平によって改革開放が進められると欧米の学者の間でも太行山区が注目されるようになったという。と言うのも、抗日戦争当時、トウ小平は129師の政治委員であり、太行区の社会改革も行った。その社会改革に、改革開放の原点が見出せるというので、欧米でも抗日戦争当時の太行区が注目を集めたという。(中国で太行区が特別視されるのも、トウ小平の改革開放政策を権威づける意味合いもあるのだろう)

 また太岳区と太行区の関係も整理できて良かった。そうか・・・分断されていたのか。

 
 じゃあ、今回はここまで。・・・・・・あと二つ。
 

*1:北京と湖北省武漢を結ぶ鉄道

*2:河北省、山東省、河南省にまたがる抗日根拠地

*3:山西省を南北に走る鉄道。最南部の大同市と最北部の永済市を結ぶ

*4:河北省石家庄と山西省省都・太原を結ぶ鉄道

*5:単に「県」と言うと、その県の中心である「県城」は含まれていない場合がある。他の根拠地の「県城」が多くの場合日本軍が統治じているのに対して、この根拠地では多くの県城も共産党の統治下にあるということ

*6:『中国革命的太行抗日根拠地的社会変遷』(『Social and political change in revolutionary China : the Taihang Base area in the War of Resistance to Japan, 1937-1945』/David S.G. Goodman/Rowman & Littlefield Publishers/2000年 の中国訳本 )

*7:華北抗日根拠地史』P47〜P48

*8:山西省省都・太原と河北省省都・石家省を東西に結ぶ鉄道

*9:北京と湖北省省都武漢を南北に結ぶ鉄道

*10:山西省中央部の晋中市

*11:山西省南東部の長治市

*12:山西省東南部の晋城市

*13:長治市

*14:山西省東部の陽泉市

*15:河南省北部の焦作市

*16:河南省北東部の安陽市

*17:河北省南部の邯鄲市

*18:邯鄲市

*19:邯鄲市の北

*20:邢台市の北

*21:『中国革命的太行抗日根拠地的社会変遷』

*22:山西省南西部の臨汾と南東部の長治市屯留県を結ぶ道路

*23:山西省南西部の臨汾市曲沃県と山西省東南部の高平市を結ぶ道路

*24:長治市

*25:臨汾市

*26:山西省との省境近くにある河南省焦作市の県名

*27:臨汾市

*28:河南省済源市

*29:運城市

*30:運城市平遥県

*31:河南省済源市

*32:華北抗日根拠地史