晋綏抗日根拠地


 抗日根拠地の花形(?)と言えば「晋冀豫抗日根拠地」ですが、この根拠地はあまりに変化が大きく複雑すぎるので、比較的まとめやすい「晋綏抗日根拠地」を最初にまとめていきます。
 なお文中の「注意」は自分に向けて言っています。


晋綏抗日根拠地
注意:「晋西北抗日根拠地」と呼ばれる場所と同一地域である。

概要

関連部隊:一二〇師,山西新軍
所在地山西省(晋)北西部および内蒙古自治区(旧綏遠省)の南部の一部
範囲

東の境は同浦鉄*1および平绥鉄道*2。西の境は黄河。南の境は汾陽−離石路*3。北の境は绥遠省のフフホト市(後略)*4(P57)

→つまり山西省の西側半分のうち約二分の一程度の地域が含まれ、内モンゴル自治区の一部も含まれるということ。
面積:南北に約500キロ,東西に150キロほど。
行政上の構成(名称)1,晋西北区 2,大青山区(遊撃区?)の2戦略区。
※この2区とは別に晋察绥辺遊撃区も含まれる
人口,兵力:人口320万。48の県を包括。兵力は6万1千。
備考

この根拠地内には祟山山脈があり、管涔山,洪涛山,雲中山,呂梁山などがある山地である。耕作に適した土地は少なく、主要産物は、麦,ジャガイモ,大黄,羊皮。名産は、有名なモンゴルの良馬。平原地区に比べ、この地区の人民の経済,生活,文化程度はみな少々立ち遅れている。*5


沿革

1937年9月:八路軍一二〇師三五八旅が、晋西北抗日根拠地の創設を始める
1938年8月:一二〇師三五八旅七一五団が、大青山根拠地の創設を始める
※一、行政上、晋西北区は中共晋西北区党委の,大青山区は中共绥遠区委の指導下にある。晋西北区党委绥遠区委は、中共北方局の直属である。
二、軍事上、両区は一二〇師の指揮下にある。
三、ただし晋西北地区の行政の権利は、国民党の閻錫山にある。また軍事上も晋西北は、八路軍と閻錫山の晋綏軍の共同駐屯区である。
1939年12月:晋西事変
1940年1月:閻錫山と停戦協定。晋西南を晋綏軍の、晋西北を八路軍の駐屯地とする。
一、晋西北区と大青山区を統轄する晋西北軍政委員会成立(軍事)。
二、晋西北区委晋西区委が合併し晋西区党委となって、晋西南と晋西北の党の工作を統轄する(行政)。
※閻錫山との共存体制が崩壊したため
注意:「晋綏抗日根拠地」はこの時点で成立したと見なすべき? またそれまでは晋西南部にも八路軍は駐屯していた。
1940年11月:晋西軍区が成立し、晋西北区と大青山区の部隊工作を統轄する。(軍事
注意:つまり「晋綏抗日根拠地」の名称が変わったと理解するべき?
1942年9月:晋綏分局行政)、晋绥軍区軍事)成立
注意:これは「晋西軍区」の名称が変わったと見るべきか? よくわからない。
1943年11月:晋綏辺区行政公署成立。晋西北と绥遠地区の党政と軍を統轄する


晋西北区(晋綏抗日根拠地の一部)

概要

関連部隊:一二〇師
所在地:主に山西省
範囲

東の境は同浦鉄道の北側で晋察北岳区に接する。西の境は黄河で陜甘寧辺区*6に接する。南の境は汾陽−離石路で、晋綏軍の駐屯地に隣接する。北の境は清水河*7で、大青山区に接する。(P59)

※つまり晋綏抗日根拠地の山西省の部分
人口:38の県を包括する。うち興県,臨県,保徳,河曲,偏関,岢嵐の6つの県城は中共の統治下にあった*8
※この6県城はいずれも山西省西部、黄河の近くにある。


沿革

1937年9月:忻口戦役に参加するため、一二〇師三五八旅が山西省西部に入る。
1939年12月:閻錫山が八路軍を攻撃(晋西事変)。
1940年1月:閻錫山との停戦協定の結果、山西省西北部(晋西北)は完全に八路軍だけの駐屯地になる。(代わりに晋西南からは撤退する)
 中共は、晋西北を4つの専区*9(第二,第三,第四,第八専区)に区分し、独自政権を建てる。
1941年8月:晋西北行政公署成立(行政)
1944年8月:晋綏辺区行政公署成立(行政)
1945年1月:晋西北区の専区は8つになる(第一〜第八専区)

大青山区(晋綏抗日根拠地の一部)*10

概要

関連部隊:一二〇師三五八旅第七一五団
範囲

大青山区は陽山山脈の中ほどにある。北の境はモンゴル人民共和国に近く、ソ連に通じる。南の境は和林格尓*11で、晋西北区に接する。東の境は察绥辺区で、晋察冀区に接する。西の境は黄河で、陝甘寧辺区の隣である。(P66)

→晋綏抗日根拠地のうち現在の内モンゴル自治区にあたる部分
備考

この地域は晋察冀辺区の障壁であり、モンゴルとソ連に通じる道であり、陝甘寧辺区の北の入り口である。(P66)

大青山周囲の地区は、日本軍の内モンゴル統治における心臓部分であった。(同)

この一帯は、国民党傅作義の根拠地であり、イスラーム教徒の馬鴻賓の駐屯地でもあり、東北の馬占山の部隊も常に往来する場所である。他にもいくつかの雑多な軍がいる複雑な地域であった。(同)


沿革

1938年4月:陜北紅軍老騎兵団を八路軍绥蒙遊撃司令部として绥蒙工作に派遣
1938年8月:一二〇師三五八旅の第七一五団と騎兵営の一部を大青山遊撃隊に改編。
 大青山地区を三つの地区(绥南区,绥中区,绥西区)に分ける。绥東区は遊撃区とする。
1938年12月:第七一五団を主として八路軍绥蒙遊撃隊(大青山支隊)を結成。
1940年4月:晋綏辺区党委成立。(行政
注:「辺区」と名のつく場合は、行政上の名称だと理解してもいい。「辺区」という名称になったら、中共が政権を建てたことを意味する・・・と理解すべき? つまり当該地区は「晋綏辺区」と呼ばれる行政単位になった。
1941年5月:晋绥辺区党委绥遠区党委名称変更
1942年10月:塞北分区成立(日本軍の大「掃蕩」で情勢が悪化したため晋西北第五軍分区大青山騎兵隊支隊を合併させたもの)。
1944年8月:塞北行政公署成立(行政)
1945年7月:北軍分区绥蒙軍区に改める(軍事)またの名を绥遠軍区
 绥南,绥中,绥西を統轄する绥蒙政府成立(行政)。


雑感

 いやぁ、ちゃんとまとめてみて良かった。
 なにしろ今までの私だったら「晋綏根拠地」と「大青山根拠地」と言われたら、てっきり別々の根拠地かと思っただろう。だけど、「晋綏」の中に「大青山」が包括されている、ということだった。
 そして「晋綏根拠地」と「晋西北軍区」が同じだとか、「晋西北軍区」と「晋綏辺区」はつまり軍事上の区分か行政上の区分なのかわからず、これは同じ地域が名前が変わったのかそれともまったく別の地域なのかで混乱していたことだろう。
 ・・・しかし、おそらく一番単純な晋綏抗日根拠地でもけっこう大変だな・・・まあ、苦労すれば後々二度と混乱することもないか。
 とりあえず頭から湯気が出てきたので、今日はここまで。

*1:山西省を南北に貫く鉄道。最南部の大同市から最北部の永済市を結ぶ

*2:北京と绥遠市(現内モンゴル自治区フフホト市)を結ぶ

*3:山西省の真ん中よりやや南にある呂梁市にある汾陽と離石の街を結ぶ道

*4:陽山山脈の北側まで

*5:華北抗日根拠地史』

*6:陝西省甘粛省寧夏回族自治区にまたがる共産党の本拠地

*7:内モンゴル自治区にある黄河の支流

*8:日本軍と混合する地域では、一般に地域の中心である県城は日本軍の支配下にあった

*9:中国の行政単位の一つ。省と県の中間

*10:この地区は「抗日根拠地」と言うより「遊撃区」として近年の文献は扱っている

*11:フフホト市の南東にある街