日本士兵覚醒聯盟本部

 もうだいぶ前のことになるが、山西省武郷県の王家峪八路軍総司令部記念館を見学に行ったついでに、そこから車で5分ほどの農村・棗林村にも行ってきた。ここは、八路軍総司令部直属政治処と「日本士兵覚醒聯盟」の本部が一時期置かれていた村だったからである。
 最近、突発的に「反戦同盟」について調べねばならないことがあったので、ついでに「日本士兵覚醒聯盟」本部の紹介もやっておこうと思う。


 「日本士兵覚醒同盟」とは何かと(超)簡単に説明すると、八路軍の捕虜になった日本兵のうち、日本の侵略戦争に反対するために日本軍に向かって反戦の呼びかけを行った人々が組織した「日本人民反戦同盟」というのがあるが、「日本士兵覚醒聯盟」とはその前身的組織である。
 「日本士兵覚醒聯盟」は1939年11月に山西省遼県(武郷県の隣県。今の左権県)の麻田鎮にて数名の元日本兵らを中心に組織された。続いて翌年の1月、うち3名の元日本兵捕虜が山西省武郷県(当時、八路軍総司令部のあった)王家峪村で八路軍に正式に加わっている。その後、このような組織は河北,山東,河南など広範囲に設立され、41年には「反戦同盟」という統一組織が成立する。


 その「反戦同盟」の前身である「覚醒聯盟」の本部が山西省武郷県の棗林村にあることを、私も王家峪の八路軍総司令部記念館を参観しに行った時にその展示を観て初めて知った。王家峪からそう遠くないように思えたので、チャーターした車の運転手に頼んで予定を少し変え棗林村に向かってもらった。


 武郷県は山西省の東南部に位置し、太行山脈の一角にある。山西の省都・太原市から黄土高原を貫く汽車に乗って3時間ほどかかる。八路軍総司令部のあった王家峪村へは、武郷県城(県の中心地)から車で山道をさらに1時間ほどかかり、棗林村はそこからさらに車で5分の距離である。
 田舎には違いないが、それでも太行山脈というすさまじい山岳地帯の一角にある村としては比較的開けていると思った。


棗林村の写真、運転手さんが写ってしまった。


 村まで来たもののたぶん八路軍総司令部のように記念館なんか残っていないだろうし、なにか目印になるようなものもありそうになかった。
 そこで中国人運転手さんがそのへんの村人をつかまえて「村で一番年取っている人」の家を教えてもらった。そしてその老人の家に行くと、わざわざ娘か息子嫁らしき女性に支えられて老人が門の外まで出てきて運転手さんになにやら話してくれた。私は対応を運転手さんにまかせほとんど喋らないようにしていたので村人たちが私を日本人だとわかったかは定かではない。


 老人が教えてくれた「その家」は村の小高い丘の上にあった。かなり急な斜面を登ってその場所へ向かう。・・・・・・って言うか本当に急だった。

丘に上がる斜面の途中から見た棗林村


 やっと上がりきった丘の上には比較的大きいが、いかにも古そうな一軒の家。丘の下の家々に比べても相当ボロい。


 ここが本当にかつて「覚醒聯盟」の本部であったかどうか、八路軍総司令部に展示されていた「覚醒聯盟本部」というキャプションがついた写真と比べてみる。


記念館に展示してあった「覚醒聯盟本部」の写真


同じアングルから撮った丘の上の家


 ・・・・・・うん、同一の場所だよね?

 どうやらここにはすでに別の村民が住居として使っているらしい。運転手さんが出てきた人に中を見学させてほしいと頼み、住民の女性は少し怪訝そうであったが庭にいれてくれた。現在の住人は「昔のことは知らない」とのこと。

なかなか広い敷地で、初期の「覚醒聯盟」の人々はここに暮らしていたのかと思うとなかなか感慨深い。
 後で資料で確認したが、当時(39年末)この家に暮らし「覚醒聯盟」成立の準備をしていた元日本兵捕虜は7名だったという。


 門から出て裏庭の崖から見える風景。おそらく戦争当時とそう変わらないと思うが、侵略戦争に反対するため、中国の寒村で祖国と対決する道を選んだ人々はどんな思いでこの風景を眺めていただろうか。この場所のことではないだろうが、「覚醒聯盟」=「反戦同盟」の一人は後にこう書いている。

 太行山脈の東端の峰に立つと、広漠たる河北平原が地平線のかなたまで見渡せる。それを目のあたりにしたとき、思わず郷愁をおぼえ、山をかけ下りて逃げ帰りたい衝動にかられたこともある。しかし、ともかくもふみとどまって自分の決心を反芻した。
 決心を行動にうつすことだけが、日本軍の蛮行にたいする中国へのせめてもの贖罪だ、というのがそのときの私の気持ちであった。また、日本兵士にたいし「馬鹿なことをやめよ」とよびかけて、彼らの蛮行を少しでも減らそう。新しく捕虜になってくる日本兵士にたいしては、同じ苦しみを味わった者として、新しい道のあることを知らせ、彼らの苦悩の過程を少しでもちぢめる手助けをしよう――そう考えたのである。(『八路軍日本兵たち』(香川孝志+前田光繁/サイマル出版)

八路軍の日本兵たち―延安日本労農学校の記録

八路軍の日本兵たち―延安日本労農学校の記録


 ところで中国のネットでこの村のことを調べたら、当時ここで暮らした「覚醒聯盟」の一人が2005年にこの村を再訪していることがわかった。ちょっと一部を(簡単に)紹介してみる。なお↓によれば、戦争当時この村も日本軍の「掃蕩」を受けて村人が殺されたり多数の家屋が焼きはらわれたようだ。

上到高坡顶,前田老人说,过去天天爬坡走这条小道, 新房是添了不少,但是整个样子还是变化不大。正说着话,一位白胡子老人拔开人群迎了上来,拉着前田的手说:“你认识我不?”前田端详了半天说:“记不起来啦。” 那老人急冲冲地说:“你忘了?过大年时我给你送过饺子,你怎么忘了?”前田说:“那时送饺子的人有好几个,你今年多大了?”老人回答:“77岁啦。”哦,那会儿你还是个小孩子呀。“对呀!你不记得我,我可记得你。”“啊呀,你可瘦了,个子也低了。”前田忙说:“对对对,老了瘦了,低了好几公分哩。”老人领着前田先生,慢慢走进一个独门小院,走到两间房的门前说:“这就是你住的房子,好好看看吧!”前田深情地抚摸着破旧的门,泥皮脱落的墙说:“是的,我在这里住了两年多,(略)当他得知这个枣林村的村民年平均收入只有600多元的人民币时,他的心情特别沉重,一个劲儿摇头叹息。(http://www.wuxiang.org/article/show.php?itemid=948

 険しい坂を上りきると、前田氏はこう言った。「昔、毎日この小道を登っていったものです。(村では)新しくなった家も多いが、全体としては大きく変わっていない」ちょうど彼が話している時、一人の白ヒゲの老人が群集の中から出てきて前田氏の手を引っ張って「私がわかりませんか?」と言ってきた。前田氏はゆっくりと考えたから答えた。「思い出せません」老人はたたみかけるように「忘れたんですか? 正月にあなたに餃子を届けました。どうして忘れてしまったんですか」前田氏「あの時餃子を届けてくれた人は何人もいました。あなたは今年何歳になりますか?」「77歳です」「ああ、なら当時まだ子どもだったんじゃないですか」「そうです! あなたが私を忘れていても、私はあなたを覚えています、ああ、あなたは痩せましたね。背も小さくなった」前田氏はすぐに答えた。「そうです、その通りです。私も老いて痩せました。背も何センチか低くなりました」老人は前田氏を連れてゆっくりと門の中に入り、ある二つの部屋の扉の前で言った。「ここがあなたの住んでいた部屋ですよ。どうぞごらんください」前田氏は感慨深げに古い扉や表面のはがれかけた壁を触り「そうです。私はここで2年余り暮らしました」(略)棗林村の年収が600元だと知った時、前田氏の気持ちは特に沈みこみ首をふってため息をついた。


 私が棗林村にたどり着いたのはまったくの偶然だったが、このような寒村も戦争につらなる歴史と不思議な縁がある。一枚の写真から探した「覚醒聯盟本部」をよすがとして、そのようなことが実感できたことは貴重な体験だったと思う。