河北省順平県の抗日戦争(3)順平県抗日戦争史[2]1940年〜1941年

『順平県志』(河北省順平県地方志編纂委員会/中華書局/1999年)に準拠した「順平県(当時の地名は「完県」)の抗日戦争史」の年表第2弾です。



1940年1月 
県抗日遊撃大隊成立(県大隊)*1。隊員約200名。
 中共中央が1939年8月に出した「党を確固たるものとする」指示に基づき、新たな党員の確保を停止し、党組織の整理と人員の質的強化を図る。


1940年2月 
八路軍騎兵営が、完県,唐県,望県,定県の武装特務「別働隊」を殲滅。
 第十隊,県大隊、それぞれ土匪武装を殲滅。
 公安局警衛隊と三分区第二遊撃隊、王各庄橋の日本軍トーチカを三度にわたり破壊。
 三回にわたる大規模な破襲戦(線路、電線切断)を発動。


1940年3月 
 日本軍、河北省保定から、満城県,完県などを通って河北省阜平県*2に至る公道を修復する。完県内の公道の全長は42キロ、道の北側には深さ6メートル,幅10メートルの封鎖壕*3が掘られる。完県各地に19個のトーチカが建てられ、封鎖線が作られる。


1940年春 
 山西の抗日根拠地へ大規模な食糧運輸を行う。


1940年3月 
 中共中央の『抗日根拠地の政権問題に関する指示』に基づき、大規模な民主選挙キャンペーンを実施し、“三・三制”*4の貫徹を確認する。
 二支隊が仕かけた地雷により、日本兵一人が死亡。日本軍は現場で追悼会を開き、その後付近の董家庄を襲撃。農民9名を殺害する(董家庄惨案)。
 日本軍が陽各庄を包囲し、村の抗日自衛隊中隊長の劉士元を捕らえ、県城に連行する。劉士元は翌日、監禁場所から脱出し反撃を試みるも射殺される。


1940年4月 
 晋察冀辺区*5が“促憲”運動を展開。これに合わせて完県でも各抗日民主政府と各種団体により“憲政促進会”が発足する。


1940年4月20日 
 晋察冀辺区人民抗日武装委員会が成立。完県の抗日武装自衛隊総隊も県武装委員会に改編され、県委の直接指導を受ける。


1940年5月  
 県文化救国会(文救会)『完県文化』を発行し、詩や小説を載せる


1940年6月末〜7月初め 
 県,区,村レベルで選挙準備のための会議が開かれる。会議後、村劇団,宣伝隊が組織され、選挙実施に向けて宣伝活動を展開。


1940年初夏 
 西北戦地服務団*6が、郷村文芸訓練班を設立。完県から20人余りが参加し、訓練を受ける。


1940年夏 
 公安局長・劉仙峰と警衛隊の一小隊が人夫に変装し、日本軍の道路修理工事に参加。工事監督の日本兵7人を殺害し、銃7丁を手に入れる。


1940年7月 
 県大隊が二団とともに望都県城と巷北の敵拠点を攻撃。近隣の各村は400もの担架を運ぶ。
 六区の中心地である東新興が日本軍に包囲され、区長や県幹部が犠牲となる。
 

1940年7月下旬 
 選挙工作がすべて終わり、各区は人民代表会と区長を選出する。二区では初の女性区長が誕生する。


1940年8月 
 初の県議会が召集され、県長や県議会議長が選出される。


1940年8月20日〜12月5日 
 八路軍が百団大戦を発動。


1940年9月 
日本軍が晋察冀辺区の北岳地区*7を中心に大規模な「掃討」を開始。


1940年10月末 
 日本軍一万五千、13方面から北岳区に侵攻。


1940年11月1日 
 北岳区人民武装委員会、地区内の幹部と自衛隊員に「戦いに備え、敵の報復掃討を粉砕せよ」の号令をかける。


1940年11月 
 北岳区の自衛隊と青年抗日先鋒隊、公路を破壊し、電線を切断し、敵拠点を急襲するなど部隊に協力する。 
 完県人民武装委員会、部隊を率いて保定*8北の徐水県,漕河県および保定南の鉄道沿いの日偽軍に攻撃を加え、鉄道と公道を破壊し、保定の日本軍の移動を阻止する。


1940年秋 
 百団大戦の結果、日本軍は抗日根拠地に対し侵攻,封鎖,掃討の「三位一体」攻撃を行い、完県も危機的な時期に突入する。
 阜平県で文救会の会議が開かれる。会議後、県委は文救会の活動を強化し、県の各区に文救会事務所を設置。
 県内各地で「親汪兆銘派」による抗日活動への破壊工作が起こる。


1940年冬 
 完県委と県抗日政府の指導で、県公安局と各抗日団体が「反汪派」闘争を行う。40人が逮捕され、4人が処刑される。
 県北の巷北、招庄城外が県内日本軍の最大拠点となる。長期駐屯部隊として一個小隊が配属され、重機関銃迫撃砲などが配備される。


1940年12月15日 
 辺区委『統一累進課税暫行弁法』を公布。


1941年1月 
 県委、『統一累進課税条例』に基づき3ヶ月以内に公糧を完納するよう全県に指示を出す


1941年1月1日  
 夜、県大隊の7名の戦士が、偽軍内に入り込んだ味方の協力で尭城橋の日偽軍拠点を攻撃し、4名の日本兵を殺害、10数名の日偽軍を捕虜とし、銃16丁を得る。


1941年2月末 
 全県の大部分の村で村合作社が組織され、区聯社が建設される。県農民合作社は県合作社聯合社に変わる。
 食糧管理を徹底するため、供給制とする。県軍用代弁処は糧食局となり、食糧管理に不適当な県,区,村の食糧管理幹部を罷免する。


1941年3月 
 辺区政府、各県に冀中*9への食糧供給を指示。完県では4回に渡り、毎回2000人を動員して食糧を運搬する。そのうちの一回は日本軍と遭遇し、運搬を護衛していた騎兵営と遊撃隊との戦闘となる。日本兵数人が戦死し、武器と弾丸数百発を得る。しかし、4回目の運搬中にも日本軍に発見され、5名が犠牲となる。


1941年春 
 辺区委、大規模な”三・三制”村選挙を実施。県党委などが各村に赴き、民衆に”三・三制”実行の意義を教育する。その結果、大部分の村では選挙により”三・三制”が実現する。


1941年4月初 
 全県で『統一累進税条例』に基づく公糧*10が集め終わる。


1941年6月 
 完県の模範村劇団の数が92劇団に達する


1941年夏 
 県文救会が農村劇団を組織し、県政府所在地の買各庄で劇や歌の公演を行う。題目は『茂林事件』、『義勇軍行進曲』『保衛黄河』など。


1941年7月 
 県委と県政府、全県で共産党創立20周年の慶賀活動を行う。


1941年7月7日 
辺区委、『晋察冀辺区婚姻条例』を公布し、女性の結婚の自由を法律で保障する。*11


1941年8月10日 
 7000人の日偽軍が南峪,安陽,司倉などを包囲攻撃。当地に駐屯の軍と政府は大きな打撃を受ける。 


1941年8月 
 辺区の参議会にて一部の議員*12が議長を弾劾し、辺区政府は住民の生死を顧みず強引に食料を徴収していると批判する。


1941年11月 
 辺区委、『展開冬学運動実施大綱』を公布。12月1日より全区で冬学*13を開学することとする。完県では11月末に教師の集中訓練、教材の用意などを行う。


1941年11月10日〜21日 
完県では2500名の民兵を動員して唐県(完県周辺の県)城から完県の招庄に至る10キロ余りの封鎖壕を破壊。


1941年12月20日 
完県では3000名の民兵を動員して、完県城から巷北の封鎖壕20キロ余りを破壊

 












 
 

*1:いわゆる地方部隊。八路軍ほど広範囲で活動せず、自衛隊民兵ほど特定地域に縛られない・・・と理解すればよいかな?

*2:当時、河北の抗日根拠地の中心地の一つだった

*3:日本軍が抗日部隊の移動や彼らに必要な物資の運搬を阻止するため掘った壕。一部にかけられた警備厳重な橋からのみしか壕を越えられない

*4:共産党が指導する抗日根拠地内の県・区・村の各選挙にて、幹部に当選する共産党員の割合が30%を超えてはならないとする制度。統一戦線の下、共産党が抗日根拠地の政権を独占しているという非難を避ける目的だったと思われる。

*5:山西・河北・チャハルにまたがる抗日根拠地。完県はここに属する。

*6:劇や歌などを通じて華北の戦地の人々を慰問したり、抗日の宣伝をする団体

*7:晋察冀辺区の一部で、山西省東南部や河北省の一部を含む。完県もこの地区に属する

*8:当時の河北省の中心都市。日本軍に占領されている。

*9:河北中部。完県は河北西部に位置する

*10:軍への支給食料など抗日戦遂行のために必要な食糧、税のように各地に負担された

*11:これまで農村部では女性自身には結婚相手の選択や離婚の自由はなく、封建的慣例で売買婚も横行していた。当該条例は売買婚を全面的に禁止し、結婚は親の強制ではなく男女双方の合意によるものとし、また女性から離婚を申請する自由を認めた。

*12:『順平県誌』では彼らを地主階級を代表する議員としている

*13:冬の農閑期を利用して学校に行ったことがなく字も書けない農民を対象に開かれた初歩的な学習運動