河北省順平県の抗日戦争(2) 順平県抗日戦争史1937年〜1939年

 だいぶ時間が空きましたが、順平県の抗日闘争について年表を上げてみたいと思います。
 この年表はすでにメモとしてまとめていたのですが、もう少し順平県の抗日闘争史を総合的に理解してからあげる予定でした。ですが、だいぶ時間がかかりその間何も書かないわけにもいかないので、いったん未完成ながらあげておくことにしましや。まだ私自身よくわからないで書いている部分も多く、後でいったん取り下げるかもしれません。


はじめに

 これから数回に分けて、『順平県志』(河北省順平県地方志編纂委員会/中華書局/1999年)内の「抗日戦争」項目に書かれていた年表を元に順平県における抗日戦争の歴史をまとめてみます。

・以下の記述は、すべて『順平県志』にのみに依拠したもので、その他の資料での事実関係の検証は行っていません。
・年表のすべての項目ではなく、順平県の抗日戦争史を理解する上で重要と思われるもののみをピックアップしました。
・順平県で起きた出来事ではなくても、順平県の抗日闘争と深い関係のある出来事(順平県が所属する晋冀察抗日根拠地の重要会議など)も含めイタリック体で示しました。
・逆に順平県と関連ある部隊が県外で行った活動などについては除外しています。
・記述は『順平県志』の年表各項目の内容の趣旨をまとめたもので、年表そのものの翻訳ではありません(年表の文章を翻訳引用する箇所は「」にて示します)。



1937年7月〜1939年12月



・1937年7月7日
 北京郊外にて盧溝橋事件勃発。


・1937年9月 
 日本軍が北京と天津を占領。日本軍20万は平綏鉄路沿い,平漢鉄道沿い,津浦線路沿いの三方面から南下を続ける。国民党軍12万は河北省保定でこれを迎え撃つが、数日の激戦の後に南へ撤退。完県(順平県の旧名)の国民党県長および政府機関人員はその間に南へ避難*1。完県は無政府状態となる。


・1937年9月20日 
 日本軍歩兵第二十師団の一部が完県県城に入城。
 早朝、東湿陽村にて国民党軍から落伍した8名の兵士が日本軍に捕まり射殺される。
 午後、日本軍大隊が二名の外国人宣教師の案内で県城に入る。その後、日本軍はこの2名の宣教師を殺害し、さらに3名の民間人、東関村の岳天義,北関王の毛尓,西朝陽村の精神病者(氏名不詳)を殺害。


・1937年9月27日 
 日本軍の大隊は県城内で7日間休息した後、完県を後にする。


・1937年10月 
 当地出身の晋察冀省委宣伝部長・劉秀峰(共産党員)が完県に帰郷。当地の地下党員、民主人士らと連絡を取り、党組織を復活。および抗日救国団体の設立をはじめる。


・1937年10月25日 
 八路軍115師随営学校校長・王紫風,民政部の幹部戦士20名が完県に到着し、劉秀峰らと合流。
 夜、寨子村にて村民大会および戦地動員委員会選挙を開く。その後、大悲村にて共産党員,知識人,愛国学生・人士などからなる完県初の抗日区政権を樹立。主任(区長)は八路軍幹部の李潮海。


・1937年10月29日 
 八路軍騎兵営(営長:劉雲彪)、完県に到着。県城を回復した後、陳候村一帯に駐屯。


・1937年10月〜11月 
 共産党八路軍によって完県抗日義勇軍が作られる(その他、この時期に各地で民間などによる雑多な抗日武装組織が多く生まれる)。
 中共完県委員会設立(対外名称は民政処)。
 全県的に戦地動員委員会が設置。
 県抗日人民武装自衛委員会設立。
 常庄の学校にて県抗日臨時政府が樹立される。この後、村単位で自衛委員会が設置され、見張り・郵便・食糧管理などを担当する。


・1937年11月5日 
 山西省五台山に晋察冀軍区が成立(完県はその一部となる)


・1937年12月 
 県抗日民主政府、正式に成立。県長は林軍。


・1937年12月27日 
 完県婦女抗日救国会成立。


・1938年1月1日 
 完県抗日義勇軍、晋察冀軍区第三分区第十大隊(団)に改編。隊長兼政治委員は王紫風。


・1938年1月10日〜15日
 河北省阜平県(晋察冀軍区の河北省部分で最も中心的な場所)の各地代表による選挙にて晋察冀辺区臨時行政委員会成立。


・1938年1月31日
 国民政府、晋察冀辺区臨時行政委員会を正式承認。当地の行政を委任。


・1938年1〜2月? 
 八路軍騎兵営と第十隊、民衆に害をなす存在として趙海竜土匪集団を武力にて消滅


・1938年2月4日 
 八路軍騎兵営と第十隊、日本軍の拠点となっている望都県(完県の東)の県城を攻撃。日本軍と偽軍100人余りを殺傷または捕虜とし、囚われていた40名余りの抗日軍民を救出。


・1938年2月13日,23日,26日 
 日本軍が報復のため完県に侵攻。完県県城および常庄などの村が攻撃を受ける。常庄では民衆103人が殺害され、抗日部隊の戦士70余名が戦死の他、強姦された女性数十名、障害を負った者8名、燃やされた家屋496軒の被害となる(常庄惨案)*2


・1938年2月26日 
 八路軍騎兵営と第十隊、常庄を襲った日本軍・偽軍部隊に報復攻撃。日本軍・偽軍100人余りを殺傷。


・1938年3月 
 完県の行政を五つの区に整理。各地で村長選挙を実施。
 文芸・宣伝工作を強化。
 高等小学校の整備。
 

・1938年春 
 県,区,村の各抗日人民自衛委員会の下に、自衛隊を設置。主な任務は、見張り,通行人検査,スパイ摘発,負傷兵の担架輸送と看護など。
 この他、生産から離れ、県自衛隊総司令部の直接指揮を受ける基幹隊(200人前後)を組織*3


・1938年4月15日 
 阜平県にて冀西政治主任公処が成立。完県は冀西二専区の一部となる。


・1938年5月 
 県長・林軍に代わって、国民党の趙景高が完県県長に赴任。


・1938年6月 
 全県的に大生産運動を展開


・1938年6月3日 
 冀西各県県長会議にて、冀西全体で百万元の公債(抗日闘争に必要な公的食糧・物資・金銭。食料,綿花,布などを含む)。そのうち完県は麦8万キロ*4を含む35400元の公債を負担、これを完納する。


・1938年上半期 
 辺区行政委員会が「減租減息試行条例」「村合理負担弁法」などを施行し、雑税と過酷な税金を整理。
 小学校教員の養成。各村から1〜2人の青年を推薦し15日の集中訓練。


・1938年7月 
 青年抗日救国会による新聞『戦闘青年』発刊される。日本軍侵入後の完県の様子を描いた長編報告文学『在激流中』、追い詰められた日本兵の割腹自殺の様子を描いた日記体裁小説『割腹』など、完県の知識人たちが作品を発表する。
 県・区の幹部,小学校教員,学生などにより宣伝隊が組織され、農村を回って抗日の劇・歌・踊りなどを行う。
 満城県(完県の北)に駐屯する保安隊*5に対し、完県党委員会が内部に人を送って工作を展開。当該保安隊は日本軍から離反し、八路軍に参加。完県の住民らによって歓迎会が催される。
 減租減息などの政策を巡って共産党と県長・趙景高および国民党系区長との対立が深刻になる。国民党系の区長職務を解かれる



・1938年8月 
 晋冀察軍区第三軍分区、完県,唐県,望都県の遊撃大隊を基礎として第二遊撃支隊を設立。


・1938年9月 
 趙景高、県長の職務を解かれる。後任に李桂信。
 全県の各政府(区,村など)はどれも共産党の指導下になる。
 日本軍、山西省五台山、河北省阜平県など晋察冀軍区の中心地区に侵攻。完県基幹大隊と第十大隊は日本軍占領下の河北省保定に奇襲をかける。


・1938年11月23日 
 辺区政府、冀西各県に合計2160万キロの食糧を負担させる。そのうち完県の負担は160万キロ*6(「なぜなら完県はその大部分が未占領だから」)。完県は同年内に135万キロを納め終わる。*7


・1939年2月 
 全華北の抗日根拠地への日本軍の圧力が強まる。日本軍は県南部の方順橋駅を占領。および平漢鉄路の両側に完県最初の封鎖壕(深さ6メートル、幅9メートル)を掘る。


・1939年3月2日 
 日本軍、完県城を占領。県城と方順橋駅を連携させるため道路を修復し、県城と方順橋駅の間に多くのトーチカ,拠点を設置する。


・1939年3月 
 各遊撃隊、夜間に日本軍の道路を破壊。
 完県内の行政区分を5区から8区に改編する。
 冀中部隊10000人と馬300匹、部隊の整理休養のため完県に駐屯。


・1939年5月 
 全県で「青年突撃月」キャンペーン展開。大規模な参軍運動が展開される。 


・1939年6月 
 冀中の戦闘部隊、整理休養を終え冀中に戻るが、3000人の後方勤務員,軍需工場員,輸送員および馬100匹は完県に長期駐屯することになる。完県全部隊が1日に必要とする食糧は1万キロ*8に達し、完県共産党委員会は生産の強化、および市場での大量買付けを行い、部隊の食糧を確保する。
 収穫間際の麦を狙って日本軍が東安陽村と西安陽村を襲い、西安陽村の民衆20人余りが殺害される。さらに出動した抗日部隊50人が戦死する。


・1939年夏 
 身を隠す植物の繁茂時期に合わせ、県政府は日本軍占領地付近の山岳区でも宣伝工作を展開。植物の枯れる頃に帰還。


・1939年7月 
 県文化界抗日救国会成立。宣伝物の用意,新聞『抗敵報』や書籍の発行を担当。
 

・1939年8月 
 基幹大隊副隊長・石振山と数名の隊員、県城に潜入して敵幹部の暗殺を謀るも失敗し、石振山は殺害される。 


・1939年秋 
 情勢の悪化に伴い、完県の2つの高等小学校を統合。名称を抗日遊撃小学校として情勢に合わせて安全な場所へ移る移動式学校とする。
 日本軍の保定一一〇師団,張家口の独立混成第二旅団,大同二十六師団,その他の部隊が五台山地区、完県など河北抗日根拠地に対し、いっせいに大規模掃討を開始。完県の八路軍騎兵営・第二団,大十隊反掃討戦を戦う。
 日本軍の掃討および封鎖,自然災害によって完県は部隊の食糧を賄うことが困難になる。近隣の第一専区清苑県より、食糧5万キロを援助してもらう。県政府は二度にわたって輸送運動を展開し、住民4千人が参加。日本軍の封鎖線を越え、70キロの距離がある清苑県から食糧を担いで完県まで運ぶ。


・1939年冬 
 西北戦地服務団が完県に慰問に訪れる。


・1939年末 
 県公安局はスパイ防止のため二重スパイ戦術を展開し、20日で二件のスパイの摘発に成功する。




感想メモ的な

 自分で年表を訳してみて思うのは、やっぱりただ漠然と読むのとちゃんと訳していくのでは臨場感が違うなぁ〜ということ。
 ここまで訳したものを読み返すのは簡単だし、中国語原文をざっと眺めていた時も「ふ〜ん、なるほど」という感じだった・・・もちろんいろいろと興味深くは読んでいたが。
 しかし、自分で時系列順に訳していくと、情勢がどんどんヤバくなっていくのが真に迫ってわかる。当初はただひたすらに抗日の情熱に燃えていたであろう地域が少しづつ暗い影に覆われていく・・・・・・そんなちょっとした恐怖が訳している自分の胸にも生じてくる。それもその情勢の悪化がまだ序の口という印象もばっちし伝わってきて、これから先の時代を逐次訳していくのもちょっと怖くなるんだよね。
 もっともこれは「読む」という行為とは別の「訳す」という行為で原文と向き合った自分だから感じることで、訳した結果のこの年表を読む人に、情勢がだんだん悪化していく、そのヤバさや怖さというものが伝わるかどうか・・・・・・少しでも伝わればいいのだけど。









 

*1:この県に限らず日本軍の南下により華北各地では国民党政府機関が次々と南へ避難し権力の空白状態が発生した

*2:被害内容については年表ではなく別項の『日偽暴行』中の「一 常庄惨案」の記述を元にした

*3:ここで今まで出てきた武装組織を簡単に説明すると、・八路軍騎兵営→八路軍115師から派遣された正規軍。活動範囲は完県内に留まらず周辺一帯となる。本格的な戦闘を担当し生産=農業・工業などには従事しない。 ・第十隊→地方部隊。活動範囲は基本的には県内。騎兵営のサポート的に戦闘に従事し、おそらく生産には携わっていない。  自衛隊民兵の一種。基本的に自分の村周辺が活動範囲。基本的に戦闘には参加せず、普段は以前通り自分の村で農作業などに従事しながら持ち回りで見張りなどを担当する。   基幹隊→民兵の一種。県内が活動範囲。農作業のことは気にせず、八路軍・第十隊などのサポートを行う

*4:実は私は本気で度量衡の計算が苦手なので、原文を示しておく。計算間違いを見つけたらご指摘ください。一応現代の基準で一斤=500gと見なして計算した。「分配完县35400元公债任务,内有麦子500大石(折合16万斤)完県は麦500石(8万キロ分)を含む35400元分をまかされ」

*5:日本軍により組織されそのサポートを行う半警察的な組織。地元の中国人で構成される

*6:「冀西各县动员公粮16万大石,分配完县1.2万大石(冀西各県に16万石の公的食糧徴収の動員をかけ、そのうち完県には1.2万石の負担」、1万石=270斤=135キロ、とすると16万石は2160万キロとなる計算だけど合ってます?

*7:「到年底就完整了粮食1万石的任务(折合270万斤)(年末までに1万石(135万キロ分)の食糧を納める任務を完成した」

*8:「每日需粮2万斤」