『記憶にであう 中国黄土高原 紅棗(なつめ)がみのる村から』

・・・全然、記事の更新ができなくて反省反省。でも今後もなかなか更新は難しいな。いい加減地方志の整理に入りたい。


 とりあえず今回は文献紹介です。


記憶にであう―中国黄土高原 紅棗がみのる村から

記憶にであう―中国黄土高原 紅棗がみのる村から


 2003年、本書の著者は、中国陝西省から山西省にかけての旅行中に、車の故障で偶然ある村に立ち寄ることになる。しかし、そこはかつて三光作戦で蹂躙された村であり、著者は戦後はじめてその村・山西省臨県李家山を訪れた日本人であった。
 その村でのできごとは著者に強烈な印象を与えた。そして3年後、著者は

2005年6月、それまで住んでいた北京を引き払って、私はひとり”紅棗がみのる村”に転居しました。(P11)


 ・・・・・・・・・・・・えええええ!!


 三光作戦が行われた村に訪問したとか、調査に来た日本人は他にもいるだろうが、「移住」までした人は聞いた事がないです。


 しかし、著者は本当に移住したのだ。



 ちなみに山西省臨県がどのようなところかと言うと、山西省西部、陝西省との省境にある県だ。(http://d.hatena.ne.jp/smtz8/20100905/1283702744に中国語ですが地図を掲載しています)黄河のほとりでもあり、まさしく黄土高原の真っ只中という感じ。
 この付近で起きた特に有名な虐殺事件では、賀家湾という村で逃げ込んだ壕の中に日本軍が煙を送り、273人の村民が窒息死した賀家湾惨案がある(もちろんその他小規模な虐殺事件も数多くある)。

 

 移住先の李家湾(後に付近の別の村にも移住)とその周辺は今でも平均年収1000元*1ほどの「国家級貧困県」に指定されている農村で、主に紅棗が特産、住居は窰洞(ヤオトン)という場所。



 著者は移住することで、村人との間に信頼関係を築き、周辺の村すべての老人に対して抗日戦争中の記憶の聞き取りを行い、その『証言集』を刊行する予定だという。


 しかし、本書は『証言集』ではなく、著者の李家湾やその後引っ越した近くの樊家山での日々を文章半分写真半分といった写真エッセイ的な感じで紹介する本となっている。黄土の村のリアルな生活と三光作戦の村に日本人女性である著者が受け入れられていく様子がつづられている。


 例えば聞き取り調査の一環として著者は写真を撮っているが、この村では写真そのものが珍しい。著者の村には自分の写真を撮ってもらおうと人々が連日やってくる。著者は家の前に「中日友好写真館 午後五時開店 60歳以上は一枚無料です」と張り紙し、ある程度制限を設けようとする。そんなある日のエピソード。

 

ある日、2枚めの写真を受け取りに、杖を突きながら薛じいちゃんが谷の方から登って来ました。彼はどうやらレンズの前に立つ快感を覚えたようです。ところが写真を渡してもお金をくれません。
「じいちゃん、これは有料だよ」
「ない」
「2枚目からはお金もらうっていったでしょ」
「60歳以上が1枚タダだったら、オレは76歳だから、2枚タダでもいいだろう?」
「えっ? そんな理屈は通らないよ」
「そのかわり歌を歌ってやるよ」
「♪〜…♪〜〜……〜……♪ゼーゼー〜〜♪〜……♪ゼーゼー……♪」
 どうやら抗日ソングのようです。これがなかなか美声で、これならお金は取れないなと内心思ったのですが、途中でゼーゼー何度も息が切れて、聞いてみると心臓が悪いんだそうです。
「じいちゃん、もういいからいいから……」
 と、まあ、こんな感じで、実際に払ってくれたのは2、3人です。そのうえ、噂を聞きつけた隣村から、ぜひウチにも来てほしいとのお声がかかるようになりました。(P73)


 とは言っても、本書でも43人の老人たちから聞き取った興味深い内容を載せている。


 そのほとんどが三光作戦の被害にあった一般住民のものだが、(八路軍研究をしている私から見て)たいへん興味深く貴重なのが元八路軍兵士の証言まで収められている点だ。



 これは私自身の研究内容に基づく不満だが、抗日戦争時の中国民衆のことについて書かれた日本の文献では非戦闘員であることがはっきりしている民衆のことについてはインタビューや諸々の調査が行われているが、八路軍兵士(や民兵)であった者たちについてはほとんどスルーされているのが私は以前から不満だった。
 もちろん、戦争研究にとって最も無力な人々の視点に立つことは一番重要なことだと思うしそれだって三光作戦の調査をはじめまだまだ不十分だと思う。しかし、それ以外について軽んじている印象*2*3はぬぐえない。もし八路軍兵士も中国民衆の一部であり、往々にして地域住民の一人であるという観点から考えればなおさらである。
 まさしく本書では、八路軍兵士が以前からその地で暮らし今も暮らし続けている住民であること*4がはからずも示されている。



 それでは中国側の研究はどうかというと、八路軍関連の研究は山のようにされているし、当事者たちの『回想録(集)』も数多く出版されている。
 しかしここで気をつけねばならないのが『回想録(集)』に自らの体験を載せられるような人はそのほとんどが当時またはその後一定以上の地位にあった人々であり、一兵卒の体験が収集対象になることは少ない。
 もちろんまったく無いわけではないが、それでも『回想録』という性質上、<文字の読み書きができる>ということが条件になってしまう。しかし、農民出身の兵士の多くが昔も今も非識字者である。本書でも
 

私が出会った老人たちのほとんどは字がかけません。いま誰かが記録に残さない限り”名もなき”農民たちの無数の記憶は、いずれ”なかったこと”として歴史の闇に葬りさられることでしょう。実際に、ある日突然、彼らの記憶が絶対の闇のなかに瞬時に折りたたまれてゆくその時を、私自身の目で何度も見て来ました。平均寿命のきわめて短いこの地で、わずかに残された最後の記憶にであうことができた私の幸運を感謝せずにはおれません。(P173)


とある。


 近年、中国の歴史学界でも「文字資料偏重」が問題視されるようになったのか、オーラルヒストリーの重要性、非識字者の戦争体験の早急な収集の必要性が言われているようである。良い傾向だと思うが、それでも中国国内ではその証言に制約がかけられる心配もある。



 これらの理由から、私は日本人である著者が本書で八路軍兵士の証言を扱っていることをたいへん貴重に思うし、今後の本格的な『証言集』も楽しみにしている。
 ただ、少し補足すると本書では5人の男性が「元八路軍兵士」*5と紹介されているが、うち一人はその証言内容から抗日戦争中は「民兵」であったのではないかと思われる。
 


 そのうち著者が接触した最初の八路軍兵士とのやりとり、そしていかに彼が証言してくれるに至ったかを紹介してみよう。

 ようやくにして、元八路軍兵士曹汝福老人から話を聞くことができました。
(中略)
 私もある村でお相伴に預かっていると、この村に日本人に腕を切り落とされた元八路軍兵士がいる、という話を聞いたので、さっそく訪ねてみることにしました。小さな村のことなので、左袖がむなしく垂れ下がった曹老人の姿はすぐにみつかりましたが、私が取材を申し込むと。彼は「日本人に話すことは何もない。写真も撮られたくない」といって、さっさと奥に引っ込んでしまったのです。まさに取りつく島もありませんでした。私はなんのアポもなく突然訪れた非礼を詫びたい気持ちでしたが、おばあちゃんの方はくったくがなく、写真がほしいというのでシャッターを押しました。そしてすぐにそこを辞そうとすると、おばあちゃんがどんぶりいっぱいの紅棗を持って来て、「持っていけ」「いえ、けっこうです」が何度もくり返されたのですが、そこへ突然曹老人が現れて、何もいわずに私の手提げ袋の中にその紅棗をざざーっと入れたのです。一瞬のことでした。
 そこで私は不覚にもぼろぼろっと涙を流してしまったのです。曹老人がいきなりやって来た日本人の私を拒否したのなら、それはむしろあたり前のこととして終わったのですが、思いもかけない彼の無骨な優しさに接した瞬間、私はどうしようもなく切なくなってしまったのです。60数年ぶりにずかずかと踏み込んできた日本人を前に、永遠に消えることはないであろう左腕の痛みと、はるばる遠くから自分を訪ねてきた客人に対するこの地の”もてなし”との間で、彼の心は激しく葛藤したことでしょう。しかし最後にはこの地の習慣に従ったのです。(中略)
 そして数日後、バイクの後ろに乗って高家塔の隣村へ行く途中、向こうからオート三輪の助手席に乗ってやって来る曹老人とばったり出会いました。私たちはほとんど同時に車から降りて近づき、ごく自然に握手をかわしました。曹老人はニコニコ笑いながら、「帰りはウチに寄って、今夜は泊まっていきなさい」といったのです。
(中略)
 話を聞くうちに、彼が左腕を失くしたのは、嵐県という北の方の戦場で、日本兵と白兵戦の末、刀で切り落とされたということがわかりました。部隊が壊滅して、300人のなかの6、7人の生き残りのひとりだということですが、ほんとうによく生きて帰って来られたなと思います。(中略)そして、その白兵戦で睨み合ったにっくき日本兵の次に出会った日本人が私だったのです。この広大な中国で、そして60数年ものときを経て、こういう人たちと出会える不思議な縁を思わずにはいられません。(P146〜P147)


 多くの困難に遭いながら、著者を動かしているものはなんだろうか? 著者は前書きで書いている。最後にそれを紹介しよう。


 私は彼らが60数年もの長い間、”私たち”がやって来るのを待っていたのだと思いました。そして同時にこれ以上は待てないこと、つまり体験者がどんどん亡くなっていくという現実を前にして、私は待たれていたことの責任を、自分なりに果たしたいと考えました。そして、「この村であったことを、日本に帰ったらみんなに伝えてほしい」という、陳老人のたったひとつの要求に応えたいと思ったからです。(P11)


 著者のブログ
  http://d.hatena.ne.jp/maotouying/




追記

 本音を言うと、実は私は著者の活動を手伝いたくてしょうがないのだが、どうやったら手伝えるものか、目下多いに悩み中である。

*1:1元=13円〜14円。イメージ付けのため例をあげると、私がとある中国の地方都市で見た中卒(初級中卒)女子向けの求人で住み込みで月1000元というのがあった

*2:しかし私も日本の関連分文献にまだまだ詳しくないので、誤解しているだけでちゃんと扱われているのかもしれない

*3:前回紹介した『日本軍毒ガス作戦の村』には民兵の証言も収集してあった嬉しかった

*4:言い換えれば、戦争さえなければ彼らは一生「非戦闘員」であった

*5:ちなみに私が調べた範囲ではこの地方で活動していたのは主に八路軍の120師