捕捉資料

 なかなか更新できないせいで長引いてしまったが、防衛研究所資料ネタは今回でとりあえず最後にする。



八路軍中共の見解について


「公表をはばかる内容なので公表できません」 - 八路軍研究メモ


 上のエントリーにて

まだはっきり調べたわけではないが、いったん捕虜になったが解放されて日本軍に戻ってきた兵士が殺されてしまっているという話が日本兵たちの間で存在したらしい。中国側(八路軍中共)の証言でも、当初は捕虜にした日本兵を解放していたが後に「日本軍に戻ったら殺される」と訴えられて日本軍に戻すのはやめた、という話がある。


 と書いたが、なにぶんいろいろな資料を読んでいるので、そのような内容を見た記憶はあるのだが、いったいどの文献で見たのかはっきりしなかった。とりあえず以下の文献に関連度が高いと思われる記述があったので引用紹介。


日中戦争下 中国における日本人の反戦活動

日中戦争下 中国における日本人の反戦活動


 本書収録の井上久士論文「中国共産党八路軍の捕虜政策の確立 1937年−1940年」では、以下のように戦争初期の中国共産党側の見解・方針が紹介されている。

「捕虜の話すところによれば、日本兵士で戦闘後一週間以上連絡が切れ、その後帰隊したものは、全員銃殺刑に処せられる。今後捕らえた捕虜は、特殊な人材でわが方に留めるのをすすめる者以外、態度がどうであれ一律にできるだけ優待し、大衆を動員して慰労させ、良い影響を与えたらすぐに歓送して釈放することとする。多くても三日を超えてはならない(後略)」(P39)


 これは1938年10月に八路軍総司令部によって出された捕虜の取り扱いの具体策の一部である。出典は中国語資料の『八路軍・文献*1』。


 井上論文によれば、中共は当初、日本兵を留め置き敵軍工作などに活用することには消極的で、何らかの理由ですでに長く留まった捕虜に民衆宣伝(日本兵を確保しても殺してはならない、など)や敵軍工作などへの協力を求めた以外は、新規の捕虜は一律に早期に解放するのが原則であった。上の通達は、捕虜たちから時間が経ってから解放されても日本軍に処刑されてしまう、と訴えられて送還期限を明確に定めた、というわけなのだろう。
 さらに井上論文によれば、この原則は1940年に大きく転換され、捕虜を送還せず留めおき、日本人民反戦同盟を組織して敵軍工作へ協力を求めるというものに変わったという。*2


 井上論文では野坂参三の延安における中共捕虜政策を踏まえた上で制定されたものとして、1940年の「日本人捕虜に対する政策」について論じているが、その「日本人捕虜に対する政策」では

(3)帰国または原隊に帰ることを望む日本人兵士には安全に目的地に到着するまでできるだけ便宜をはからう。
(4)中国または中国の軍隊で仕事をしたいと望む日本兵には仕事を与え、勉学を望むものには適当な学校に入れるようにする(P44)


との規定がある。ここでは(4)のように帰隊を望まない者は留めることが明示されているが、帰りたいと望む者には帰る道を残している。


 以上のように井上論文では、1938年の指示にせよ1940年の規定にせよ私が書いたように「日本軍が帰ってきた捕虜を殺している」→「なので中共側は帰すのをやめた」という流れは見出せなかった。
 しかし、以下の日本兵捕虜の証言では、そのような認識が示されている。この他にも探せばそのように解説している文献はありそうだが、見つけた際に改めて追記することにする。




日本軍兵士の認識


 さて、では「いったん捕虜になったが解放されて日本軍に戻ってきた兵士が殺されてしまっているという話が日本兵たちの間で存在したらしい」という話であるが、これもやはり私が日中戦争の資料を読む中でどこかで(よく)見かけた話であり、それゆえに私の中で「そういう話が日本軍兵士の中でささやかれていた」という認識が形成されたのだが、いったいどの本で見たのか思い出せない。(たぶん戦記ものとかあたれば出てくるかもしれないが)
 しかし、上記の本の中に八路軍の捕虜になり反戦同盟員として活動した者たちの証言ではあるが*3、いくつかそのような認識が紹介されている。


私は下士官でしたので日本軍に帰れば、銃殺か自決させられる(P135)

もし逃げても、日本軍は捕虜になったら必ず自決しろと言っていましたし、それに、弾薬をなくしたうえに捕虜になったのだから、軍法会議にかけられ抹殺されるのがおちですよ。軍法会議かその場で銃殺でしょう。自分のまわりにそういう人を直接知っていたわけではなかったけれど、話には聞いていました。だから八路軍もはじめは希望者は帰隊させる方針であったものを、残して優待するという方針に換えたわけです。(P155)

 また捕虜になった日本兵に対する日本軍・日本の対応として以下のような興味深い証言がある。


 例えば反戦同盟員の多くは日中戦争中は本名ではなく変名を使っていた。証言者の一人は自分の変名は中国側がつけてくれたものとして以下のように言っている。

これは八路軍の野戦政治部敵工科の幹部あたりがつくってくれたのでしょう、本名だと家族に迷惑がかかるという判断だったのです。(P105)

本名を使っていた人は莫大な懸賞金がかかっていたのです。(P112)*4

 一方、以下のように扱われた人もいる。このような例を聞くと日本側の戦果記録なども(項目によっては)相当怪しいものに思えてくる。

あとでわかったことですが、私は「戦死」扱いでしかも功七級の金鵄勲章をもらっていました(中略)中隊の記録係りが適当に繕って手柄を立てて戦死したという状況をつくったからでした。軍隊なんていい加減なもので、敵の捕虜になったなんていうことになったら、その中隊としても不名誉なことになったわけですよ。(P160)


農民を八路軍兵士に仕立てあげる


 さて、話は変わって


『回想録』 - 八路軍研究メモ


のエントリーで紹介した「折田貞重大佐回想録」には、著者が参謀長として赴任した山東省における日本軍兵士の略奪の様子が赤裸々に描かれており、さらに

また、論功行賞を得るため、逃げ遅れた農民を八路軍兵士に仕立てあげたり、清朝時代の村落自衛のために使われた古い銃まで鹵獲兵器として戦果に計上しようとしたりする日本兵たちの様子も描かれている。


といった内容*5のことが書かれている。著者ははっきりと「仕立てあげられた」と書いているので、日本兵士が農民を八路軍兵士と誤認したわけではない。


 これは山東省の事例だが、実は河北省においてもよく似た事例がある。回想録にはその「仕立てあげ」の詳しい手法は書いてなかったが、河北の事例では被害者の証言を用いて紹介されている。




 上記の本は河北省の北坦村で地下道に逃げ込んだ住民・民兵に対して毒ガスを用い800人近くの犠牲者を出したことを立証した本である。毒ガスに苦しみ地下道から地上に脱出したところを日本軍に捕らえられ、他の者たちとともに村の家に監禁されたある村民は本書の中でこう証言している。

 午前10時ごろだったと思います。日本軍の通訳が叫びました。「八路軍の軍服を着てそこ(庭の中の西北の部分)に並べ)!」
(中略)
 一〇分もしないうちに、さっきの通訳がまた私たちのところにやって来ました。とても不満な顔で、「なんでまた戻ったんだ」と言いました。私は「太君(日本軍と一緒にいるこの通訳へのお追従)、向こうでは私たちを並ばせてくれないんです」と言いました。彼は私の両足を蹴って転ばしました。「起きろ! 行け!」。彼は私を引っ張って、軍服を着ている者たちの方へ連れて行きました。その途中、彼は「これが俺の好意だって、後からわかるぞ」と言いました。
 彼は、軍服を着た者たちのところにいる日本兵と日本語でなにか二言三言ペラペラしゃべりました。日本兵が私たちを受け入れたので、私たちはそこで自分の服の上に八路軍の軍服を着込みました。この時、庭には、まだ軍服を着ていない者が九〇〜一〇〇人ほどいたと思います。
(中略)
 日本兵は軍服を着なかった者たちを、背中から小銃(三八式歩兵銃)でせっついて、「早く! 早く!」と井戸の方へ引っ立てました。井戸の端では、背が高くてメガネをした長い顔の将校らしい日本兵が一人いて、そばにいた兵隊の手から帯剣した小銃をとると、軍服を着ていない一人の中国人の尻を突き刺しました。痛がって転がる中国人の体を続けて五〜六度も刺しました。傍らにいた別の日本兵が、最後にピストルでこの中国人を撃ち殺しました。
(中略)
 軍服を着ていない中国人たちは、着ている列の方へ逃げました。しかし、日本兵はこれを許しませんでした。二〜三人の日本兵が、続いて一人の軍服を着ていない中国人を井戸のところまで引っ立てて、二〜三回刺しました。あとは同じように中国人を引っ立てて殺すことの繰り返しでした。中国人は刺されるたび、叫び声を上げました。日本兵は「ン!」と気合を入れては刺していました。さっきの通訳が私と許*6さんの傍らに来て言いました。「バカめ、今になってわかったろう? 俺に助けられたって」(P146〜P149)


 この証言者はこの後、石家荘に連行され、さらに東北に送られて炭鉱で強制労働に従事させられる。さらに本書では、同じく八路軍の軍服を日本軍に着せられてそのことで虐殺を免れた別の村民のことにも言及されている。彼はトラックに乗せられいったん日本軍支配化の定県城へ連れていかれた後、そこから石家荘を経て東北へ送り込まれ探鉱での強制労働に従事させられた。

定城県の南門では、多くの中国人が出迎えた。王さんたちはトラックから下ろされ、門の道の両脇を人々が拍手する間を、縛られたまま歩いて城内に入った。人々はみな、王さんたち縛られた中国人を八路軍の捕虜と見ていて、これを「征伐」して捕まえたきた日本軍を「歓迎」しているのだった。彼らは定県で商売をしている者たちだった。日本軍に強制的に駆り出されたのだと、王さんは思った。(P254〜P255)

 本書を一読した時、私はにわかには信じられなかった。八路軍の軍服を用意*7する周到さ、誤認ではなく一般の住民にそれを着せてわざわざ八路軍兵士にし立てあげるということ、それに軍服を着た者は助け着ていない者は殺すというつまり(し立てあげられた者とはいえ)八路軍兵士は助けるのに一般住民は殺してしまうという逆転した行為*8。しかし、本書の調査は全体として相当に信頼の置けるものであり、日本軍がこのようなことをしたのもほぼ事実であろう。であれば、少なくともこれは河北省の北坦村という場所で起きた特異な事例だったのだろう、と私は思っていた。
 しかし、「折田貞重大佐回想録」にて山東省においても同じく住民を八路軍兵士にわざとし立てあげるという事例があったことがわかった。前述したように回想録ではその手法を詳しく書いてはいないので、北坦村のような周到なものであるかは不明である。だが、まったく別の経緯・意図で書かれた二種の異なる地域に関する資料が、同様に「し立てあげ」について言及しているのは興味深いことで、強いて言えばこのような行為が華北各地で(頻度はともかく)普遍的に行われていた可能性を示唆する。
 よく三光作戦の弁護や八路軍への批判として、住民と混在するあるいは住民と区別のつかないような戦い方*9が悪いという論法がある*10。しかし、上記の例のように、八路軍兵士と住民*11の区別がつかなくて住民を兵士と誤認した、とかもはやそのレベルではない、と言うか区別とかどうでもいい、むしろわざわざ軍服まで着せて連行するという事例が各地であった可能性も検討されていいのではないかと思う。
 考えてみれば、(もちろん資料的根拠は必要だが)そのような行為も行われていたことは当然想像してしかるべきであった。しかし、八路軍と住民の区別がつかなかった論ばかりに思考が絡め取られていたため、そのような当然の想像もすることができなくなっていたようだ。





防衛研究所の史料取り扱いについて。


 防衛研究所が実は多くの史料を非公開にしていることについて、林博史教授の指摘を最近見つけた。指摘自体は1999年に書かれたもの。たぶん他の歴史家もどこかで指摘しているのではないかと思うが、林教授のものを引用しておく。

旧陸海軍史料の多くは、防衛研究所に所蔵されて公開されている。しかし問題が多い。防衛研究所には「戦史史料の一般公開に関する内規」(1982年12月)というものがある。この内規は非公開になっているが、漏れ伝わっているところによると、「プライバシーの保護を要するもの」「国益を損なうもの」「好ましくない社会的反響を惹起するおそれのあるもの」「その他公開が不適切なもの」と「判定した場合は公開しない」と決められている。「国益を損なうもの」には、「外国人(捕虜の虐待)」「領土問題」「略奪及び虐殺等」「有毒ガスの使用」などが、「好ましくない………」には「細菌兵器の実験についての報告・記録」「細菌兵器使用の疑いを抱かせるもの」などが例示されている(秦郁彦『現代史の争点』)。

 
 要するに、日本軍が毒ガスや細菌兵器を使ったり、捕虜を虐待したり、占領地の住民を虐殺したという史料は公開しないということが防衛庁内部で勝手に決められているである。先ほど、アメリカが没収した史料が返還されたと書いたが、これらの史料を扱っていたアメリカの関係者は731部隊関係の史料があったと話しているが、日本に返還されてからは誰も見ていない。隠されているとしか考えられないが、史料リストがないために何を隠しているのかもよく分らない現状である。今年の2月、国会での追及によって防衛庁は、旧軍関係史料約11万6000件のうち約7000件を非公開にしていることを明らかにした。
  ところでイギリスの国立公文書館では、非公開のものも含めて史料にはファイルごとに名前、作成年が付けられて、閲覧者用の目録に記されている。非公開の場合、50年間非公開closedというように明記されている。つまり非公開の史料として、どのようなファイルが存在し、かついつまで非公開であるのかが、閲覧者にもわかるようになっている。それに対して日本の場合には、どのようなファイルがあるのかさえもわからない。
 さらに問題なのは、この数年来、戦争責任の追及、日本軍慰安婦問題を初めとする戦後補償要求が出てくる中で、以前は閲覧できたものができなくなったり、史料の一部が白い紙で封をされて見られなくなっているものが増えていることである。情報公開に逆行する動きが進んでいる。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper33.htm

 ・・・・・・「史料の一部が白い紙で封をされて見られなくなっている」・・・・・・。
 これかああーー!!


 って言うか「国益を損なうもの」の中に例示されている「外国人(捕虜の虐待)」「略奪及び虐殺等」「有毒ガスの使用」とか、「好ましくない社会的影響を惹起するもの」(←なにそれ?)には「細菌兵器の実験についての報告・記録」「細菌兵器使用の疑いを抱かせるもの」*12とか、つまりそういう史料自体は非公開史料の中に存在している、と考えてOK? それとも「いやぁ〜ただの例えばの話ですよ例えば」って言うかね?





 というわけで、捕捉終了。

*1:中国における「文献」とは日本と同じく書籍形態の資料の意味も持つが、先人の残した文書資料全般も意味する。この場合、八路軍が戦争当時に発した公的文書・通達を指し、『八路軍・文献』はそれらを収録した本である

*2:井上氏はその要因として、日本共産党野坂参三がモスクワから延安に着任し、捕虜政策にイニシアティブを発揮したからとしている。井上氏も「野坂の役割を過大評価するものであるという反論がありうることは十分承知している」と認めているように、やや野坂参三の活動を過大評価しているような気もするが・・・・

*3:つまり証言者のポジションとしては自分が日本軍に戻る自由が中共の規定上はあったのに戻らなかった妥当な理由を説明したいというバイアスの存在が疑われる立場ということである。私自身は彼らの証言が虚偽だとは疑っていないが、歴史学的には一応そのことは判断要素に入れるべきことである。もっとも他の資料・証言との整合性、例えば捕虜になったことのない日本兵の間にもそのような認識があったことが認められれば容易に真実性が担保されることである

*4:この懸賞金については捕虜になったことではなく、反戦同盟員として活動したことに対してだと思われるが、一方「行方不明=捕虜になった可能性あり」の者の日本の家族の元へ何度か憲兵隊が訪れたという事例もあったという。

*5:戦史編纂のために防衛研究所に提出された手書きの回想録のため、本文の引用は問題があるとのこと

*6:注をつけるのもアレだが「許」という姓の村人です

*7:北坦村の事例では軍服を着た者を生かしておいたのは、東北に送って強制労働させるためであった。わざわざ軍服を着せ「捕虜」という形態を取り繕ったのは、一応「合法」=一般住民をさらって強制労働させているのではない、という体裁にするためだったのだろうか?(それでも本書で後に触れられているような過酷な環境での重労働は捕虜であっても禁止されているはずである)抗日根拠地での殺戮と違って、東北に労工を送るためにはいったん占領地に労働者を送らなければならない。一般住民をそのように処遇している事が占領地の住民の目に入れば日本軍への反感が捕虜の時以上に募るだろう。それに配慮してのことかとも思うが、河北では強制連行や騙しなどで多くの一般住民が占領地を経て東北や日本に送られている。今更一部に軍服を着せたところで焼け石に水であろう。また、即物的に考えれば、戦闘で捕虜を捕らえてきたことを占領地の住民にアピールすれば、日本軍の威信を示すことにもなるし、さらに上層部に対して誇大に戦果を報告できる。結局、いったいなぜ日本軍が強制労働させるつもりの住民に軍服を着せたか確定的なことはわからないが、このような理由が複合したものではないだろうか

*8:北坦村は日本軍の支配の及んでいない抗日根拠地の中にあるので、いわゆるすでに占領された地域での平服でのゲリラ戦とは同じには論じられない。

*9:ただ、この論法はいろいろな論点をごっちゃにしているような気がするし、そもそもそう非難する側の「では具体的に八路軍はどのような戦術・戦闘形態を取ったのか」のイメージが非常にステレオタイプかつ貧困である

*10:私としてはこの論法というか事実関係についてちょっと検討が必要だと思うが、今はその力量が無いので保留

*11:厳密に言えば八路軍兵士だって雲から生まれてきたわけではなないのだから、多くはその地元の住民である

*12:「疑いを抱かせる」とか物は言いようだな、と思う