『回想録』

私が防衛研究所に行ったのは、旧日本軍の文書あるいは将兵の回想録の中で八路軍がどのように描かれているか、つまり実際に八路軍と対峙した人々の評価・視点をできるだけ収集したかったから。
 しかし、限られた時間(半日ほど)で防衛研究所の資料を効率よく探すのは無理があり、まともに収穫できたのは回想録も含めて5、6点のみで、「日本軍の見た八路軍」情報をできるだけ多く集めるという当初の目的は達せられなかった
*1。しかし、これら数点の資料にはまた別のとても興味深いことが書かれていたりもした。


 特に興味深いのは回想録である。その一つが『折田貞重大佐回想録』*2
 同回想録は昭和十七年四月から昭和二十年八月までの、著者が第五十九師団(山東省地区)参謀時代および第六十五師団参謀長時代の自身の見聞を回想したもの、つまり山東省における治安戦(対中共戦)について言及している。戦後、防衛庁の戦史編纂の際に書き、提供したものではないかと思われる*3

 私がこの資料に興味を持ったのは、この回想録に書かれた通訳を現地の中国人を雇うのではなく、部隊の将兵に中国語を教え通訳を自主育成した例が、『北支の治安戦』において治安戦の創意工夫の例として紹介されていたから。これはこれでなかなかおもしろい事例だし、内容からし八路軍についても言及がありそうだと思った。
 だが、実際に原資料の当たってみると、確かに八路軍について多くの言及があり、また通訳の自主育成に努めたとの記述もある。しかし、著者はそれ以上に日本軍のある「問題」について紙面を割いていた。



 同回想録では、当地の八路軍の力量が優勢で、日本軍の小部隊が全滅することがたびたびあったこと。大規模な包囲討伐をするといったん活動が収まったように思えるが、手を緩めると*4すぐに復活しますます力をつけていくこと。
 そして八路軍の情報網が極めて優秀だったため、討伐隊の出動状況さえも把握され、討伐隊が目標部落についた時には住民は老人子どもを残して避難し終わっており*5、村がもぬけの殻になっていたことがしばしばだったと書かれている。そしてその村で何が起こったか。


 同回想録には、日本軍による掠奪の様子が生々しく述べられていた。筆者も「徴発」したかったが交渉相手がいなかった*6ため仕方なかったとした上で、その日本軍の行為は「掠奪」だったとはっきり本文で述べている。
 例えば、貧しい農民の家の戸を壊したり家財を奪ったりしてそれを薪*7にしたり、兵士たちが争って農民の鶏や豚を奪って、怨嗟の目でそれを見つめる村の老人子どもたちの前で笑いながら料理している様子である。
 また、論功行賞を得るため、逃げ遅れた農民を八路軍兵士に仕立てあげたり*8清朝時代の村落自衛のために使われた古い銃まで鹵獲兵器として戦果に計上しようとしたりする日本兵たちの様子も描かれている。

 筆者はこれらの光景と農民たちの怨嗟の眼を痛恨の思いをこめて原稿用紙3枚を割いて赤裸々に書き出している。
 このあたりの本文をぜひ引用したかったのだが・・・・・・。

 この資料は公的文書ではなく、個人の手書きの回想録であり防衛研究所の研究目的のために寄贈したものであるので、資料自体は公開されているとはいえ、本文の引用は問題があるようだ。なので残念ながら以上のことが書かれていた、と紹介するだけにしておく(資料自体は研究所に行けば誰でも閲覧できるし、コピーもできるのだけど)。


 ちなみに『北支の治安戦』では、この『回想録』を参考に中共軍が優勢であった様子や、この後に行った治安戦の改善、例えば通訳の育成や情報管理の改善(これは長々と引用されていた)などを書いてはいるが、上記の部分はまったく触れられていない。なので、『北支の治安戦』を元に通訳育成の話を読むつもりで当該資料を読んでいたら、こんな話が出てきてけっこう驚いた。もちろん『北支の治安戦』が基本的に日本軍に都合が悪いことは書いていないことぐらいはなんとなく理解していたが、実際に実例を目にすると感慨深いものがある。


 また、そもそも日本軍の不法行為・非人道的行為を調べるために選んだわけではない三,四点の回想録の中に他にもその手の話を書いているものがあった*9。ランダムに選んで的中率50%以上である。なので、実は『北支の治安戦』に採用された回想録の中だけでもなかなか高確率でその手の話が書かれているのかもしれない。


 当時の戦史編纂官も旧軍の関係者から回想録を募ったら、「ヤバイ話」がごろごろ出てきて焦っただろうか?(そんなことはすでに織り込み済みだったかもしれないが) しかし、それらを上手にスルーする編集方針はなかなか見事だ。
 『北支の治安戦』は膨大な戦史史料を利用し編纂されているため、これはこれで極めて価値あるもので参考になることは間違いないが、一方で、実に巧みで一貫した編集方針によって作られたものであるということは、常に覚えておこうと改めて思った。

 
 それにしても日本軍の行為にしろ、日本軍から見た当時の八路軍の様子にしろ回想録にはとても興味深いことが多々書かれているのに、本文を引用することができないのは実に残念・・・・・・と言うか研究上困るのだけど。・・・・・・このあたり何かいい方法はないか、もう少し調べていこうと思う。

 

*1:もちろん集めた資料には八路軍について多くの証言があったが、もっと数が欲しかった

*2:『北支の治安戦』においてはこの資料名で掲載されていたが、防衛研究所で検索した際には別名でヒットしたような覚えがある。しかし、『北支の治安戦』に引用されたものと同じ文章があったので同一資料と見なしていいと思う。この他にも『北支の治安戦』と防衛研究所所蔵のものとでは同一であると思われるが、資料名が微妙に違うものが多かった

*3:したがって公開されているものは防衛研究所所蔵のものだけと思われる

*4:日本軍の力では長期間継続して包囲することは無理であった、というふうに説明している

*5:日本軍の被害に遭いやすい若壮年の男女はいち早く避難したが、老人は比較的安全だと考えられ、家屋や畑の管理のために残されることが多かった。また子どもも比較的安全だと思われ、また騒いで避難場所が暴露されるのを避けるため老人たちに預けられ村に残された

*6:しかし、老人は残っていたと書かれているのだが?

*7:山東省では材木は極めて貴重であった、というふうに筆者は書いている

*8:日本軍が「誤認」ではなく、故意に農民を八路兵士にし立てあげた様子は石切山英彰著『日本軍毒ガス作戦の村』でも被害者の証言が紹介されていた

*9:それは元特務隊の人の回想録で河北省での経験が書かれていたのだが、コピー不可資料であり、急いで大事なところをメモしてきたものの、そのメモを遠く離れた実家に置き去りにしてしまい今手元にない。なので、誰が書いた何という資料名(回想録)だったか今思い出せないのだが、記憶に頼って書くと次のようなことが述べられていた。いわく、当地で活動する中共系でも国民党系でもない地域自衛のために立ち上がったある抗日部隊に日本軍は悩まされていた、そこで特務隊はその抗日部隊のリーダーの母親を誘拐して人質にとり、以ってリーダーを投降させようと計画したが、事前に察知されて母親はどこかに身を隠し計画は未遂に終わってしまった・・・・・・という。事前に察知されなければ計画は実行されていたと思われる。実はこのような抗日部隊の指導者の家族を誘拐するという話は、中国側の証言では実際に実行に移された例がいくつかあがっているが、日本軍側からの証言は初めて見た。もちろん、『北支の治安戦』はこの回想録を参考資料の一つにあげるも、この誘拐計画については触れていない