『北支の治安戦』に見る三地区(抗日根拠地・遊撃区・占領区)

 『北支の治安戦2 戦史叢書18』(防衛庁防衛研修所戦史室/朝雲新聞社/1971年)によれば、北支那方面軍は共産党八路軍に対抗するため、昭和16年(1941年)に華北の状況を調査・分析した。

 方面軍は以上のような検討を経て、新たな観点から、まず北支占拠地域の治安の実態を究明することにし、各兵団に軍事,政治,経済,社会の見地から、その担任地域を「治安地区」「准治安地区」「未治安地区」に分けて、その状態の報告を求めた。(P529)

 同書では、当時の北支那方面軍は各地域の「治安状況を明確化」し、「これに適応する施策」*1を行うことの重要性を深く認識していたとし、調査はかなり総合的に行われたようだ。

 その調査結果*2も同書P530〜P531に「占領地域の三区分に応ずる治安状況の基準概見表」として載っており、これが三地区の状況を理解する上でかなり有用だと思われる。
 そこで以下に、同表の記述を一部割愛して引用してみる。
 なおここで言われている「中国側」とは日本軍の傀儡政権や傀儡軍のことを指し。「敵」とは共産党八路軍を指す。そして「民衆組織」とは新民会など日本軍が組織するもののことであり、共産党側のものではない。

また
治安地区=敵占区
准治安区=遊撃区
未治安地区=抗日根拠地
に対応する。

総合的意義
治安地区:治安が確立し中国側の警備力のみで安定確保が可能が地域。
准治安区:軍事的には治安は一応安定しているが、その他の面はなお不安定であり、彼我の勢力が交錯している地域。
未治安地区:作戦討伐によって一時的に敵勢力を覆滅しうるが作戦終了とともに再び敵の根拠地となり、常時、敵の勢力が占有しているいわゆる敵地区。

軍事(作戦、討伐)
治安地区:分隊以下の行動自由
准治安地区:おおむね中隊単位の兵力の常駐が必要で小隊以下の行動は安全ではない。
未治安地区:おおむね大隊以上の兵力をもって、作戦討伐を組織的に継続する要がある。中隊以下の長期行動は危険である。

軍事(襲撃、破壊)
治安地区:交通線に対する小規模のもの以外ほとんどない。
准治安地区:交通、通信線に対する破壊が頻繁である。日本軍の小警備地点に対する襲撃も頻繁である。
未治安地区:(ブログ主注:未記入。もちろん自分達の拠点を破壊する意味はないからである)

政治(行政機関)
治安地区:法令はおおむね遵守されている。
准治安地区:法令は威力を伴わなければ施行できない。
未治安地区:(行政機関の)設置は不可能。

政治(学校)
治安地区:学校も整備され新民教育が逐次普及している。
准治安地区:学校は名目だけで機能の発揮が不十分、甚だしきは夜間、敵側の学校となるものさえある。
未治安地区:同上

経済(物資取得、納税)
治安地区:武力を伴わないで物資の取得可能。納税三分の二以上。
准治安地区:武力を伴えば物資の取得可能、納税率半分。
未治安地区:武力を伴えば一時的。

経済(交通通信)
治安地区:交通、通信、郵便事業おおむね円滑。
准治安地区:軍用以外の交通、通信の機能は停止している。
未治安地区:(ブログ主注:未記入)

社会(民衆組織)
治安地区:各所に新民会の組織が普及している。
准治安地区:ほとんど組織が普及していない。
未治安地区:組織は不可能。

 北支那方面軍は、以上の調査結果に基づいて「粛清建設三ヵ年計画」*3を作成した。それによれば昭和16年7月当時の三地区の分布状況は、

治安地区→10%
准治安区→60%
未治安地区→30%

と北支那方面軍は認識していた。
 ただし同書P532では、中共側・日本側双方で勢力が磐石な地域はともに10%であり、80%は中共・日本軍の交錯地域だとしている。その80%の交錯地帯のうち60%においてはおおむね日本軍の勢力が勝っているとして、准治安地区とした。つまり未治安地区も30%のうち20%は、中共優勢だがまだ勢力が交錯している地域ということでもある*4

 なんにしろ、北支那方面軍が占領できた地域は作戦担当地域の10%ということに変わりはなく、後は完全な共産党の統治下か八路軍に翻弄され、充分に支配できなかった地域であったことは変わりない。
 「日本軍は点と線を確保しただけで、面は確保できなかった」という言い方があるが、少なくとも昭和16年の段階ではこの言葉はまさしく現実を的確に表していたわけである。

*1:同書、P528

*2:ただし「本表の基準は、昭和十六年七月ころにおける北支那方面軍の見解を示すもので、関係者の回想を整理し作成した」と備考に書かれているように、昭和16年当時に作成されたものそのままではないようだ。

*3:P533

*4:しかし、上記の未治安地区の定義を見れば、実質中共の統治地域と言っていいだろう