「日中歴史共同研究」八路軍(中共)の戦い・中国側論文(1)


 今回は「日中歴史共同研究」の中国側論文の該当箇所を訳してみました。
 ほとんど直訳に近いですが。
 中国語原文と訳文を併記しておきます。
 以下の執筆者はすべて栄維木氏です。


 まずは『二章、日本の中国全面侵略戦争と中国の全面抗戦戦争>二、戦線の拡大と“持久戦”>(一)華北の戦いと徐州会戦(P194)』より。


「日军在占领绥远东部的同时,沿同蒲路开始向山西发动进攻。中国共产党领导的八路军在山西首次与日军作战。9 月25 日,八路军第一一五师在平型关伏击日军第五师团辎重部队,消灭日军1000 余人,首战告捷,受到蒋介石的嘉奖。10 月1 日,日本统帅部命令第五师团进攻太原。13 日, 忻口战役开始。国共两党军队在战役中相互配合,对日军进行了顽
强的抵抗,战役经20 天激战后以中国军队的撤退而告结束。11 月9 日,日军占领太原。太原失陷后,中国共产党领导的八路军开始在华北独立自主地进行游击战争,逐渐开辟了敌后战场。敌后战场的开辟,为中国坚持长期抗战创造了有利条件。」

「日本軍は綏遠東部を占領すると同時に、同蒲線に沿って山西への進行を開始した。中国共産党率いる八路軍山西省において最初に日本軍と戦った。9月25日、八路軍第一一五師団は平型関で日本軍五師団輸送部隊の1000人余りを倒した。この初めての勝利の知らせは、蒋介石の賞賛を受けた。13日、忻口戦役がはじまる。国共両党の軍隊は戦役の中で相互に協力し合い、日本軍の進行に対して頑強に抵抗した。20日間にわたる激戦の後、戦役は中国軍の撤退で終わった。11月9日、日本軍は太原を占領した。太原の陥落後、中国共産党率いる八路軍華北において自主独立の遊撃戦争を開始し、逐次、敵後戦場を切り開いた。敵後戦場を切り開くことは、中国が長期抗日戦を堅持する上で有利な条件を生み出した。」

 続いて『二章、日本の中国全面侵略戦争と中国の全面抗戦戦争>二、戦線の拡大と“持久戦”>(三)対峙段階の戦争(P196)』より。執筆者は同じく栄維木。
 この文章中に参考文献が一つだけだったので、訳文の中に入れておきました(原文は別記)

「这时,中日战争已经转向持久战。11 月,国民政府在长沙和衡山连续召开有共产党代表参加的军事会议。会议确定的军事方针是:“连续发动有限度之攻势与反击,以牵制消耗敌人。策应敌后方之游击队,加强敌后方之控制与袭扰,化敌后方为前方……”按照这一方针,中国抗日军事在正面战场与敌后战场相互配合,同时展开。」

「この時、中日戦争はすでに持久戦へと変わっていた。11月、国民政府は長沙と衡山で共産党の代表も含めて連続して軍事会議を開いた。会議で確定された軍事方針は「連続して限定的な攻勢と反撃を発動し、以って敵を消耗させる。敵広報の遊撃隊と連携し、敵後方の支配を強化して攪乱し、敵後方を前方と成す・・・・・・」(2=『中華民国重要史料初編 抗日戦争時期』第二編“作戦経過”/国民党党史会/1981年版/568頁)この方針に基づき、中国の抗日軍事は正面戦場と敵後戦場で相互に協力して、同時に展開された。」


『二章、日本の中国全面侵略戦争と中国の全面抗戦戦争>二、戦線の拡大と“持久戦”>(三)対峙段階の戦争(P196〜197)』


「在中国敌后战场,主要是中国共产党领导的抗日军队与日军作战。早在战争刚开始的时候,共产党就提出了开展敌后游击战的战略方针。到1940 年底,八路军和新四军已经由不到6 万人发展到50 万人,建立了约1 亿人口的敌后抗日根据地,地域包括华北、华中与华南等地区。敌后抗日根据地的建立与敌后战场的开辟,在战略上起到了牵制日军正面进攻和消耗日军的作用,有力地配合了正面战场友军作战,使中国抗战得以长期坚持。为了确保交通点线,日军于1939 年1 月开始,至1940 年3 月止,在华北地区发动了主要针对八路军的“治安战”,作战形式为“扫荡”和“蚕食”。并在作战中实行了烧光、杀光、抢光的“三光政策”。至1940 年8 月,华北八路军不仅成功地击败了日军的一系列“扫荡”,保存和发展了敌后抗日根据地,还向日军反击,集中104 个团的兵力,发动了以破袭华北日军交通线为目标的“百团大战”。此役从8 月20 日开始,至12 月5 日结束,作战范围主要在正太路,同时也在同蒲路、平汉路、津浦路、北宁路及附近公路线展开。前后进行战斗1824 次,歼灭日军2 万余人,一度造成华北主要交通线的瘫痪。战役的结果,一方面提高了中国人民抗日的信心,一方面也迫使日军以更多的兵力转向后方。
 百团大战结束后不久,中国抗日阵营内部出现国共两党的严重军事冲突。1941 年1 月6日,新四军军部及所属部队奉命北上途经皖南,在茂林地区遭到国民党军队袭击,新四军军长叶挺被俘,同时国民政府军事委员会宣布取消新四军番号。但是,在中日战争激烈进行的时候,皖南事变并未上升成内战。事变后不久,新四军重建军部,蒋介石也表示以后“绝无
剿共军事”。皖南事变之后直到中国抗日战争结束,国共之间虽然也发生过摩擦,但两党合作抗日的大局始终未变。」

「中国の敵後戦場では、主に中国共産党率いる抗日軍隊が日本軍との作戦を行った。早くも戦争が始まって少しの時期に、敵後遊撃戦の戦略方針を提出していた。1940年には、6万人に満たなかった八路軍と新四軍はすでに50万人にまで発展し、華北・華中などの地域を包括する人口1億人の抗日根拠地を建設した。抗日根拠地の建設と敵後戦場の開拓は、戦略上においては、日本軍の正面の進行を阻止し、日本軍を消耗させ、正面戦場の友軍の力となった。交通の点と線を確保するため、日本軍は1939年1月から1940年3月にかけて、華北において主に八路軍に対し「治安戦」を発動した。その作戦の形式は「掃討」と「蚕食」であった。あわせて作戦の中で、殺しつくし焼き尽くし奪い尽くすの「三光政策」を行った。1940年8月になると、華北八路軍は日本軍の一連の「掃討」を撃退しただけでなく、敵後抗日根拠地を保存し発展させ、さらに日本軍に反撃した。104個の団を集めて、華北の日本軍の交通線を破壊することを目的とする「百団大戦」を発動したのである。この戦役は8月20日に始まり、12月5日に終わった。作戦範囲は正太線が主であり、同時に蒲同線、平漢線、津浦線、北宇線およびその付近の線路でも展開された。前後して1824回の戦闘が行われ、2万人余の日本軍を殲滅し、一時的に華北の主要な交通線を麻痺させた。この戦役の結果は、一つには中国人民の抗日の信念を高め、一つには日本軍にさらに多くの兵力を後方へさかせた。
 百団大戦の終結後しばらくして、抗日陣営の内部で国共間の深刻な軍事衝突が起きた。1941年1月6日、新四軍の軍部および所属部隊は命令により皖南を経て北上したが、茂林地区において国民党軍の急襲を受け、軍長の葉挺が捕虜になり、また国民党軍事委員会は新四軍の番号を取り消すと宣布した。ただし、抗日戦争の軍事闘争が激烈に行われている時であり、皖南事変は内戦に発展することはなかった。事変後しばらくして、新四軍は新たに軍部を再建した。蒋介石も「絶対に共産党殲滅の軍事行動はしない」と表示した。皖南事変から抗日戦争が終わるまでの間、国共間では摩擦もあったが、両党が共同して抗日を行うという大局には最初から最後まで変化はなかった。」


雑感 

 最初、ざっと全体から中共の抗戦部分を探した時は、延々と国民党のことが書いてあって中共の抗戦がちょっとしか書いていない、という印象があり、いくら国民党の活躍を書くのが最近の流れとはいえあっさりすぎないか? と思っていたら・・・・・・あとでしっかりこってり書いてあった(笑)
 まあ、とりあえず中国における抗日戦争の各項目に対する現時点での「落ち着きどころ」がわかっただけでも、訳してみて収穫はあったと言える。
 それにしても「国民党の活躍」「共同抗日」を書くのが最近の流れであるものの、あまりと言えばあまりに国民党に気を遣いすぎている印象がある。特に最大の発火点である皖南事変に対して、副軍長で古参党員の項英が死亡(ただし皖南事変に関連があるとは言え、戦死したわけではない)したことをスルーしてまで、事態を矮小化し蒋介石をかばうかのようなまとめ方だ。また皖南事変の原因についてまったく触れられていないことも気になる。
 また「共同抗日」の根拠をしっかり明示しているのも興味深い。
 百団大戦に関しては、極めて無難にまとめたという印象がある。とりあえず、現時点での「百団大戦」の最大公約数的認識はこれというふうに考えていいだろうか?