「日中歴史共同研究」日本側論文の八路軍(もしくは中共の戦い)関連について


 1月31日に第一期「日中歴史共同研究」の報告書が発表され、話題になっているそうです。
 これは、2006年の安部政権の時に合意されたプロジェクトで、日中双方十人の学者が参加し、意見交換をしながら古代史から現代史までの論文をそれぞれでまとめたものらしいです。
 ・・・・・・まあ、私にはいまいち意義がわかりませんが。(とりあえず日中で歴史認識を共有するための足がかり・・・的な意味があるらしいが・・・・・・歴史認識って共有しなきゃならないものなの? 殺した側と殺された側がいったいどんな共有を?)

 とりあえず資料の一つとして当ブログのテーマである「八路軍」に関係ある箇所を抜粋してみます。

 まず、近現代史編の『第2部「戦争の時代」 第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抵抗 第2節 戦線の拡大と持久戦 2)「長期持久戦」への転換−対峙段階の戦争 b)中国の抵抗より』(報告書の277〜278P)。
 執筆者は、波多野澄雄氏(筑波大大学院教授)と庄司潤一郎氏(防衛研究所戦史部第1戦史研究室長)。
本文で示された参考文献は注で表示します。


「日本軍の大規模な軍事攻勢が一段落したとき、中国の大衆的ナショナリズム蒋介石政権の対日和平や屈服を許さない規模で広がりつつあった。占領地域や作戦地域の拡大が刺激剤となり、それまで学生や都市住民、軍人にとどまっていた民族運動は、数千万の農民を含む大運動に膨れ上がっていた。蒋介石はこうした大衆的ナショナリズムに応える術を持たなかったが、中国共産党はその要望によく応え、とくに農民大衆の支持を急速に拡大させていった(48)*1

 38 年秋、中国共産党は、武漢陥落をもって抗日戦争が「対峙段階」に入ったことを確認し、国共合作を堅持しつつ長期戦を戦い抜くことを決定した。さらに共産党はその主要な活動を敵の後方におく方針を決定し、共産党軍は日本軍の後方の農村地帯に進出して民衆武装によるゲリラ戦を展開し、各地に抗日根拠地を建設していった。抗日根拠地は全国的に広がっていくが、とくに華北において強力であった。

 38 年12 月、参謀本部は占領地域と主要交通線の確保を華北と華中の現地軍に命じた。華北では、共産党軍のゲリラ活動に対抗するため、部隊を市や町の拠点に細分化して分散配置する「高度分散配置」と呼ばれた配備形態を採用した。遊撃戦法を封殺し、住民の組織化や懐柔によって民生安定を図るのに適した部隊の配備形態でもあった(49)*2。他方、方面軍は、39 年初頭から抗日根拠地に対する「治安粛正」作戦を展開して、一定の成果を挙げた。

 しかし、華北で勢力を拡大していた共産党軍(八路軍)は、40 年8 月下旬から年末にかけて、ベトナム戦争中のテト攻勢にも匹敵する大攻勢(「百団大戦」)を展開し、石太線を中心に、橋梁、通信施設などを徹底的に破壊し、北支那方面軍指導部を震撼させた。方面軍が虚を突かれた主たる原因は共産党軍に関する情報・諜報活動の欠如であった(50)*3。同時に、百団大戦は高度分散配置の弱 点を暴露し、少数兵力で分散駐屯していた部隊は、人海戦術による攻撃に圧倒された。百団大戦は、日本軍による宜昌攻略などの圧力によって動揺し、対日和平に傾きかけていた国民政府を鼓舞する役割を果たしたといわれる(51)*4

 百団大戦に衝撃を受けた方面軍は、報復的な粛正作戦(第1 期、第2 期晉中作戦)を展開し、41年6 月には大規模な華北治安の安定化作戦として中原作戦を実施し、大きな戦果を挙げた。中原作戦後の41 年7 月には、「粛正建設 3 ヵ年計画」を策定し、「未治安地区」(解放区)を「准治安地区」(遊撃区)に、「准治安地区」を「治安区」に変えていくという計画を推し進めた。また、方面軍は、41 年3 月から汪兆銘政府との協力のもとに、軍事・政治・経済の三位一体の運動として、新民会による反共工作の強化などを含む「治安強化運動」を展開した。これらの治安強化作戦の重点は、解放区の経済封鎖に置かれるようになり、軍の「現地自活」要求の強まりと相まって、共産党軍のゲリラ戦に対抗するため日本軍による粛正作戦も過酷なものとなり、住民の虐殺や略奪(これを中国側は「三光政策」と呼んだ)の原因となる(52)*5。」

  続いて『第2部「戦争の時代」 第3章 日中戦争と太平洋戦争 第1節 太平洋戦争下の中国戦線 3)華北の戦い』より(報告書P291〜292)。
 執筆者は波多野澄雄氏。


 

「40 年後半の百団大戦によって、日本軍は華北の抗日根拠地を基盤とする共産軍の実力と脅威を認識することになり、華北の治安粛正作戦において国民政府軍に対しては「帰順」を求めるが、「警戒監視にとどめ攻撃せず」とされ、共産軍対策が重点目標となる(17)*6。41 年3 月から42 年末にかけて、北支那方面軍は、華北全域を治安区(占領区)、准治安区(遊撃区)、未治安区(抗日根拠地)に区分し、未治安区に対して組織的な「掃蕩」作戦を展開するとともに、王克敏ら旧軍閥の有力者を指導者として樹立させた華北政務委員会(40 年3 月成立)と協力して組織的な「治安強化運動」を展開した。治安区では、華北政務委員会を利用した宣伝など清郷工作、遊撃隊の活動する地域の住民を「治安区」に強制的に移住させ、遮断壕を構築する「無人区」の設定、「未治安区に対しては、経済封鎖、商品流通の分断などを実施した。「准治安区」でも共産党支配地域への経済的締め付けが強化され、遮断戦を越えて「未治安区」の市場を襲い、農産物の収奪や没収、強制買い上げ等、その規模は大きくなっていった。

 こうした治安強化運動や掃蕩作戦の強化は、抗日根拠地に大きな打撃を与え、根拠地は縮小を余儀なくされる。しかし、この未曾有の根拠地の危機は、共産党の指導による、農民大衆の経済的基盤の確立のための「減租減息」(小作料と利子の減額)運動の全面的展開や「大生産運動」などによって克服され、43 年以降、根拠地は徐々に再生・拡大をたどることになる(18)*7

 他方、北支那方面軍は華北への共産勢力の伸長を食い止めるために、43 年9 月、対ゲリラ戦専門部隊として北支那特別警備隊(北特警)を設置したが、結局、都市部でしか目立った戦果を挙げることができなかった。北特警の戦闘詳報によれば、43 年後半には、共産党軍が「治安地区」にも浸透し、「治安地区」の拡大という当初の方面軍の計画とは逆の結果を招いてしまっていた(19)*8。こうした情勢のなかで、共産軍は勢力を盛り返し、根拠地は44 年末までには40 年の状態まで回復し、45 年6 月、共産軍は河北省で一斉に攻勢に出るのである。

 ところで、42 年初頭、北支那方面軍参謀は政務将校の会同で、食糧と物資確保の緊急性を説き、「討伐作戦に伴ひ大規模なる物資獲得の手段を講ずるか、或は更に物資獲得の為に討伐を実施する」等の「創意工夫を要すべし」と説いている(20)*9。現地軍の「現地自活」という要求が強まるなかで、物資と食糧の確保のために手段を選ばない討伐作戦は、中国側が「三光作戦」と呼ぶ非違行為の背景となっていた(21)*10。すでに、40 年秋には、百団大戦に対する報復的な山西省中部での反撃作戦として、共産軍の根拠地とみなされた村落を焼き払う、という「燼滅(じんめつ)作戦」が強行されていた(22)*11。「燼滅」の一つの手段が化学弾薬(毒ガス)の使用であり、北支那方面軍司令部が各部隊に配布した『粛正討伐ノ参考』(1943 年5 月)によれば、化学弾薬は遊撃戦法をとる共産軍に対抗するために有効であるとして推奨されている。こうした「未治安区」における非違行為は、他の戦線への兵力抽出や部隊の改編によって補充兵の比率が増し、兵士の質が低下していたことが主な原因であった。」(23)*12


 また同『第3節 5)日本の降伏』では終戦時の八路軍中共の動きを以下のように記述している(報告書のP303〜304)。


「 一方、共産党側は、朱徳中国共産党軍総司令が、国民政府は解放区の人民を代表し得ないこと、解放区抗日軍は対日平和会議に代表を選出する権限をもつこと、などを米英ソ三国に申し入れるとともに、解放区の日本軍に対しては共産軍への投降を命じた。この間、蒋介石は何応欽にすべての中国戦区内の敵軍の降伏を処理する任務を与え、共産党に対しても現駐地に駐屯して命令を待つよう指示したが、共産党軍が従うことはなかった。国共両軍の抜きさしならぬ対立が早くも現れていた。

 戦争終結時に中国本土に展開する日本軍の兵力は概ね105 万人に上り、十分な兵員数と武器・装備、指揮命令系統も保持され、将兵の士気も高いまま降伏を迎えた。岡村総司令官は、8 月15 日、派遣軍は「戦争には破れたりと雖も、作戦には圧倒的勝利をしめあり、斯くの如き優勢なる軍隊を弱体の重慶軍により武装解除さるるが如きは有り得べからざること」と上申している(78)*13。この日本軍は、華北全体と長江中下流域における主要都市とそれらを結ぶ鉄道沿線一帯をなおも占領していた。華北の日本軍占領地域を取り囲むように中共の抗日根拠地が存在し、四川・雲南といった奥地が国民党の支配地域であった。

 こうした配置状況のなかで、日本軍の武装解除に迅速に動けるのは中共軍であった。日本の降伏が予想を越えて早く、国民政府は奥地に後退していた軍隊を結集して接収に赴かせることができなかった。中共軍は8 月16 日頃から華北一帯・江蘇北部において、日本軍に対して武器引渡しの要求を行ったが、派遣軍総司令部は「不法なる治安撹乱者に対しては蒋委員長の統制下に無きものと見做し、止むを得ず、断乎たる自衛行動に出ずべきこと」を通告した(79)*14この「自衛行動」の容認命令は、8 月21 日からの降伏交渉において国民政府軍によって側によって支持され、両軍が協力して中共軍に対して「自衛戦闘」を展開する素地がつくられる(80)*15。こうして、中国本土では一部で強制的に武装解除された例を除けば、日本軍が中共軍に投降することはなかったが、華北江蘇省北部の日本軍は中共軍の攻撃に対する自衛戦闘のため、7000 名の死傷者を出した。他方、華中(江蘇省北部を除く)・華南では終戦後に戦闘はほとんどなかった。」


外務省HP掲載の報告書全文はこちら。(頭にhをつけて飛んでください)
ttp://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf

なおこちらでは各項目ごとに読めるようにしてくれている。
「中国の抵抗」
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2583.html#id_084dea6e
華北の戦い」
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2584.html#id_696ca1a3
「日本軍の降伏」
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2585.html#id_5929355f


雑感

 なんと言うか・・・一読した時、予想以上に好意的、つまり八路軍の戦いに対して高い評価で書かれていると思った。
 だがよく考えてみれば、ここに書かれていることは、ごくまっとうな見解である。特に変なところもない(かと言って特別褒めるほどでもない)妥当な記述である。この程度のことを「好意的」「高い評価」と感じてしまうのも、ふだんネットで酷い記述を見慣れてしまっているせいだろう。(ただし、最後の「日本軍の降伏」については、私もまだよく知らない箇所なので評価を保留する)
 第二章は波多野氏と庄司氏の共著であり、第三章は波多野氏が一人で書いているが、第二章と第三章の中共の戦いに関する部分に一貫性があるので、この部分は二章も波多野氏が担当しているのではないかと思われる。
 しかし参考文献を見ると、波多野氏の見解が強く出たというより、参考文献の記述や趣旨をうまくまとめたようにも思える(このへんはちょっと断言できないが)。
 なにはともあれ「教科書的」にわかりやすくこぎれいにまとめてあり、華北での八路軍の戦いや日本軍の戦争犯罪についてほとんど知識がない人に、とりあえずまずこれを読んでみれば、と薦めるのに適している。ただし簡潔にまとめすぎて、基礎的なことはぼんやりわかってもここから八路軍の戦いや三光などをリアルにイメージすることは困難だろう。


 ところでこの「日中歴史共同研究」であるが、実は私もまだ全部はちゃんと読んでいない。近現代史の部分も八路軍に関係ありそうな箇所を急いで探しただけである。
 だが、「南京虐殺なんてねーよ」とか言っている右派は論外として、歴史修正主義に反対する良心的なブロガーにもこの「報告書」の記述や人選について批判が出ている。
 私も、多くの歴史学者の中からなぜこの人選なのか、特に多くの著名な近現代史家ではなくわざわざ防衛研究所の人を採用するのかという疑問を抱いた。(戦史専門じゃなくても戦史について一定の知識を持っている歴史家はいるだろうし、かえって戦史が優先され政治史や経済史などが不十分になるのではないか?)
 また、ざっと目を通しただけだが、「第3章 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動」の日本側論文には違和感を
覚えた。あまりに欧米が中国に対して高圧的なことをやけを冷めた目で見すぎているような気がするが・・・。


 

*1:(48) 戦場となった中国において、過酷な人員・食糧の動員と徴発がなされ、社会の混乱と変容をもたらしたが、それが中国共産党が支持を拡大していく社会的基盤の形成につながった(笹川裕史・奥村哲『銃後の中国社会』岩波書店、2007 年)

*2:(49) 戦史叢書『北支の治安戦(1)』朝雲新聞社、1968 年、114−47 頁。山本昌弘「華北の対ゲリラ戦,1939−1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)189−218

*3:(50) 当時陸軍は国民党軍の暗号の80%を解読していたが、共産党軍の暗号はほぼ皆無であった(前掲、山本「華北の対ゲリラ戦」200 頁)。また、戦史叢書『北支の治安戦(1)』382−83 頁。

*4:(51) 前掲、石島『中国抗日戦争史』131−33 頁。

*5:(52) 戦史叢書『北支の治安戦(1)』494−97 頁、528−37 頁

*6:(17)「第1 軍作戦経過の概要」第1 軍参謀部(1942 年1 月15 日)(『現代史資料(38) 太平洋戦争4』みすず書房、1974 年)〔以下『現代史資料』〕177 頁。馬場毅「華北における中共の軍事活動、1939−1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)232−34 頁

*7:(18)西村茂雄『20 世紀中国の政治空間』青木書店、2004 年、135−77 頁。

*8:(19) 山本昌弘「華北の対ゲリラ戦、1939−1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)209−11頁。

*9:(20) 「政務関係将校会同席上方面軍参謀副長口演要旨」(1942 年1 月15 日)(『現代史資料(13) 日中戦争5』みすず書房、1966 年、524 頁)。

*10:(21) 前掲、山本「華北の対ゲリラ戦、1939−1945」204−05 頁。なお、「三光」は、殺光(殺し尽くす)・焼光(焼き尽くす)・槍光(奪い尽くす)の意味。

*11:(22) 晉中第一期作戦(1940 年8 月30 日〜9 月8 日)では、「徹底的に敵根拠地を燼滅掃蕩し、敵をして将来生存し能はざるに至らしむ」方針のもと、「敵性ありと認むる住民中15 才以上、60 才までの男子」は「殺戮」の対象となり、「敵性部落」は徹底的に焼き払われた(独立混成第4 旅団「第一期晉中作戦戦闘詳報」)(前掲、吉見・松野編『毒ガス戦関係資料?』、資料53、54)。

*12:(23)例えば、第36 師団司令部「昭和十七年度粛正建設計画」(1942 年4 月15 日)(『現代史資料(13)』572−88頁)、前掲、山本「華北のゲリラ戦、1937−1945」209−11 頁≫

*13:(78) 前掲、『現代史資料(38)』403 頁。

*14:(79) 岡村寧次『岡村寧次大将資料(戦場回想編)』原書房、1970 年、10 頁。

*15:(80) 前掲、『現代史資料(38)』340 頁、346−48 頁。