第一部 抗日戦争時期の八路軍、新四軍(1)

 宍戸寛編著の『中国八路軍、新四軍史』(河出書房新書/1989年)は八路軍を勉強する上で基本書だと思うので、少しずつ勉強してまとめていきます。



「第1章 抗日戦開始と国共合作 第一節 国共合作の道」まとめ(1)


本文要約
・1935年、日本は梅津=何応欽、土肥原=秦純徳協定を結び、冀東自治政府の樹立と華北の特殊化を中国側に強要。
→中国民衆の反発。35年9月に抗日救国同盟組織される。


西安事変以前の国共和平交渉


・1936年2月 紅軍と東北軍の間で事実上の停戦
・1936年春(?) 瓦窰堡の中共中央に国民党の使者が接触?(出典『周恩来選集』)
・1936年4月9日 延安で張学良と周恩来の秘密会談。停戦を確固たるものにする。
・1936年6月 紅軍と山西の閻錫山の間に秘密の停戦交渉。(出典 H.Hanson『Human Endeavour Story of the Chinese War』 宋劭文から聞いた話しとして)



閻錫山との停戦交渉とは?


 36年春、北方局書記劉少奇が、国府に囚われていた薄一波らに偽装転向を指示し、多数の共産党幹部が出獄。これは彼らの「転向」を国府側が信じたと言うより、当時始まっていた秘密交渉の一部と考えられる。
 薄一波らは、山西の閻錫山の元で犠牲救国同盟会の組織に当たる。

 その時北方局が与えた指示は以下の通り。


1、しっかりした地盤を築く。閻錫山がまったく容認できないようなスローガンは提起しない。官製団体のレッテル貼りを恐れない。
2、着実に大衆を動員し組織する。


このような指示の下、薄一波と閻錫山の間で以下の三点が合意。


1、中共による抗日救国宣伝は制限を受けない
2、中共は抗日救国に有益なことはなんでもする
3、薄らが登用する人材の安全は保障される


・1936年9月、犠牲救国同盟会結成。薄一波が秘書長。その他、秘密党員が指導部の要職に就く。
・1936年11月、閻錫山は中共中央に全権代表の派遣を要請。中共は彭雪楓を太源に派遣し、中共駐晋弁事処を開設。表向きは上海にある公司の支店であり、閻錫山の腹心・梁化之のみが連絡に当たってその存在は極秘にされた。


 薄一波は閻錫山の態度をこう評す。(P10。出典は『人民中国』1965年6〜7月号収録「王若飛同志の出獄より)

「閻錫山は自強救国同志会(犠盟会の前進)の政策決定の席で『手に電気のムチを握って大衆を立ち上がらせるなら、こちらの役に立たせることができよう。それには危険が伴うだろうが、今の場合共産党との合作をおいてほかに打つ手があるか。今こそ腕のみせどころだ。だれがだれを食うか、みているがいい』といった。つまりこうした考え方に立って、閻錫山は表面上わが党の統一戦線の主張を受け入れたのである。共産党員を利用し、共産党の方策を若干取り入れて、外に向かっては日本侵略者に抵抗し、内には蒋介石に刃向かうというのがかれの魂胆であった。」


西安事変における国共交渉


周恩来選集』によれば、蒋介石の釈放に当たって国府は以下の三点を中共に保障した。


1、孔祥煕、宋子文が組閣し、親日派を一掃する
2、撤兵と中央軍の西北からの移動は宋子文宋美齢が全責任を負う
3、当面ソビエトと紅軍はそのままにし、共産党討伐を停止し、張学良の手を通じて軍費を支給する
→この秘密協定の他、3ヶ月以内の抗日戦を約束。



雑感

 西安以前の国共交渉については、ほとんど知らなかった。特に閻錫山との合作については初めて知ることばかりである。また1937年以前の状況については、やはりもっと勉強しなければいけない。
 閻錫山の例に見るとおり当時「内戦停戦一致抗日」の思想がいかに広範囲の声だったかがわかる。もっとも民衆一般とは違い、地方軍閥にとっては「対蒋介石」に利用できるという思惑が強かっただろう。それでも「今の場合共産党との合作をおいてほかに打つ手があるか。」と言わしめるのは、相当のこと。
 現在、「長征を終えた共産党は滅亡寸前。日中戦争の勃発によって生き延びた」という言説が多い。それも真実であろうけど、では何故そんな滅亡寸前の相手の声に民衆だけでなく軍閥までもが耳を傾け、例え反蒋介石のためであってもそんな「弱小」な相手と切実に合作を求めたのだろうか? 本当に共産党は「日中戦争がなければ滅亡していた」ほどの存在だったのか? おそらく一万前後ほどに減っていた中央紅軍の弱った姿のみを見ていては共産党の底力というか、当時の状況というのを見誤るのではないか? 日本軍の誤算とはそこにもあったのでは?
 しかしこの閻錫山の発言の出典が建国後の薄一波の発言であるから、本当にこう言ったのかどうか疑問はある。それでも合作の動き自体は事実であるから、それが意味することを軽視してはいけない。
 にしても共産党西安事変で要求しすぎ。


調べもの
・梅津=何応欽、土肥原=秦純徳協定、冀東自治政府華北の特殊化とは?