『北支に於ける奔敵事犯と之が警防対策』

 防衛研究所に資料を漁りに行った際、『北支の治安戦』の巻末参考資料一覧に載っていた憲兵隊内部発行冊子の『北支に於ける奔敵事犯と之が警防対策』(昭和18年発行)が目に留まった。ちょうど捕虜から日本人反戦同盟になり日本兵たちに反戦を呼びかけた人々のことが気になっていたので、ちょっと読んでみようとしたら、後半部分が袋綴じ状態で閲覧不可になっていた例の史料です。

http://d.hatena.ne.jp/smtz8/20101117/1290269562



 今回は、私のブログの本題と少しはずれますが、少しだけ反響をいただいたネタでもありますので、この史料の閲覧可能な前半部分についてもう少し詳しく書いてみます。
 ただ、確信を持って論じられるほど私はまだこの問題に詳しくはありません。また、本来であればさまざまな資料と照らし合わせながら論じるべきことなのですが、それも現行ではあまりできないので、簡単な分析や論評も書きますが、あくまでこの史料の紹介およびこの史料単体から読み取れることを中心に書いていきます。そのことに留意して読んでください。



 『北支に於ける奔敵事犯と之が警防対策』は、20ページくらいの小冊子中*1、前半の8ページまでは閲覧もコピーも可能です。

なお
・原文はすべて縦書き
・原文の漢字以外の箇所はすべてカタカナですが、ひらがなに直しました
・旧漢字は現在の漢字に直しました
・××は文字がかすれているなど判読不能部分
となっています。




「奔敵」について
 

 「奔敵」とは何かと言うと、書いて字のごとく「敵に奔(はし)る」行為のこと。『北支に於ける〜』とあるので、本史料では華北(北支)における主要敵である八路軍中共への「奔敵」行為を指している。
 そして本文中でも「事犯」「容疑」「犯罪」という語と関連付けられており、「奔敵」=「犯罪行為」として扱われている。しかし、本史料を読むとここで扱われる「奔敵」行為は、必ずしも「敵に奔る(寝返る)」とは一般的には言えないケースまで含まれていることがわかる。



表紙



左下に

昭和十八年十二月十六日 
支那派遣憲兵隊司令
×××司令部複写

のハンコが押してある。


 表紙になにやら書き込みがあるが、これが配布時のものなの米軍または防衛研究所が書き込んだものなのかいまいち判別しにくい。前のエントリーに『極秘』スタンプは当時押されたもの、と書いたがよく見ると後に押されたようにも見える。
 ただ右上の赤ワクやハンコは、防衛研究所収蔵時のもの。
 左側の黒字書き込みはほとんど判読不能だが、末尾は「部隊に(××)回覧せしむ」と読める。またその横の赤字は「回覧済」と書いてあるようだ。




研究所の史料説明


 防衛研究所収蔵資料は、表紙をめくるとこの史料がどのような史料でどうやって入手したかを担当編纂者が記したメモが張られている。それによるとこの史料は「昭和33年4月 米政府返還旧日本軍記録文書」とあり、史料の入手経路として

本史料は大東亜戦争中米軍が直接戦場で鹵獲し、又は内地進駐後、陸海軍諸機関から押収した記録文書の一つであって、長くワシントン郊外トフランコニヤ等の記録保管所に保管されていたが、米国務省に対する日本政府の返還要求に応じ昭和33年3月日本側に引き渡され、同年4月横浜着。同月10日指定保管所責任庁たる防衛研究所戦史室の手に帰したものである。


とある。この文句の書き方からして、33年にアメリカから引き渡された史料には一律にこの文言が付与されているののかもしれない。とりあえず、旧軍から引き継いだ公文書や関係者から寄贈された史料ではないようだ。




本文(前書き)


 本文の冒頭の前書きみたいなところは、以下のように始まっている。

皇軍々人にして志気の弛緩,攻撃精神の消磨等に基因し敵側の謀略宣伝に眩惑せられ易きを求めて敵に奔り或いは尽くすべき所を尽くさずして敵手に身を委ね以て全軍に対し戈を逆にするが如きは悪質も亦極まれりと謂うへく其の罪万死に値するべし


と、皇軍の士気が低下していることや「攻撃精神の消磨」という表現で厭戦気分が広がっていることが指摘されている。おもしろいのは、「奔敵」の原因はあくまで日本軍側の士気の低下などが原因(主)としてあり、中共側の宣伝工作はそれあってのもの(縦)であると読めるところ。
 また「万死に値する」とあるが、もちろん「万死に値する」=「奔敵」者を殺せ、ということには直接にはならない。・・・・・・ならないけどさ、いきなりぶっそうだなぁ・・・・・・。



 続けて前書きでは

然るに北支に於ける奔敵事犯は昭和十六年に発生を見たるを嚆矢とし本年は十一月現在に二十六件に達し真に寒心に耐えざる現況に在り(略)之が事犯の発生の素因は今後漸く其の多きを加えんことを予見せらる


と「奔敵」が無視できない状況にあることを認め、今後も士気の低下が続き、それに伴う「奔敵」事犯も引き続き発生することを指摘する。その後、その予防と対策のために今まで憲兵が扱った事犯の分析を行うのがこの冊子の目的だと続いてる。




「一、奔敵事犯発生状況」


次ページから本題。まずは、現状分析から。

奔敵事犯発生状況を年度別に観察するに昭和十五年までは其の例を見ざりしに同十六年至り二件(兵一、軍属一)同十七年二件(兵二)本年は十一月現在既に十六件(准士官一、下士官一、兵十五、軍属一)に達せり之が状況別紙第一の如し
而して以上事犯は一度敵手に身を委ねたるも事後放遺せられたるもの,又敵軍と共に山野を彷徨潜伏中を我方に逮捕せられたるもの或いは×奔敵未遂を終りた×ものの×(××)(逮捕)×中憲兵×取り扱ひたるもののみ計上したるものにして此の外現に敵中に在る末就捕(未帰還)奔敵者及生死不明者逃亡兵等にして奔敵容疑濃厚なるもの等相当数上るものと思料せらる


 本史料では「奔敵事犯」を二十六件と言うが、これはあくまで憲兵隊が身柄を確保し、「奔敵」(または未遂)の罪が確定したものだけである。憲兵隊の手の届かない八路軍側に留まっている「奔敵者」の人数はまったく不明。統計に表れたのは氷山の一角に過ぎないだろうし、憲兵隊も実際の「奔敵者」は相当の数に上ると書いている。




二「事犯の態様竝原因動機」


 さて、それではそもそも憲兵隊はどのような行為を「奔敵」と定義しているのだろう?
 私は他の国の軍隊のあり方に明るくないが、少なくとも明確な意思を持って脱走し敵側に寝返る行為は、日本軍のみならずどこの軍隊でも軍事上の犯罪行為と認定されるだろう*2。だが、史料を見ると憲兵隊(日本軍?)が規定する「奔敵」の定義はえらくおおらか・・・・・・もとい幅が広い。

 昭和十六年以降北支に於ける奔敵事犯二十件二十二名中
1 自ら進み敵に投じたるもの又は抵抗の余力あるに拘らず敵手に身を委ねたる所謂故意奔敵(未遂)十八名
2 奔敵の意思なく逃亡中敵に拉致せられ又は戦闘中人事不省の儘捕虜となり事後脱出帰来の努力を為さず茬苒敵中に在りたる所謂事後奔敵四名
にして些かも同情の余地無き故意奔敵大部を占めあるは注目を要す


 と、「奔敵」の種類を「故意奔敵」と「事後奔敵」に分類し、それぞれの定義を明らかにしている。
 ・・・・・・しかし、最初の「自ら進み〜」以外は、それって「敵に奔る」行為じゃなくて、単に普通に捕虜になっただけじゃなかろうか?


 ここで気になるのが「抵抗の余力あるに拘らず敵手に身を委ねたる」の「抵抗の余力」とはどの程度のことを指しているのだろう? これだけでは「武器弾薬が尽きていないのに投降した」から「死ぬまで戦わず投降した」までさまざまなレベルに解釈できる。
 確かに、武器弾薬も充分にあり戦闘が劣勢でもないのに降伏するケースならば、以前から「奔敵」の意思があり敵との接触という機会が訪れたので実行した、と見なされても仕方ないだろう。しかし、例えば武器弾薬が尽きたり戦闘が劣勢でこれ以上戦っても益がない状況で投降した者も「抵抗の余力あるに拘らず敵手に身を委ねたる」「故意奔敵」の範疇なのだろうか? ケースとしては圧倒的にこちらが多いと思うのだが。


 ここで注目すべきは、「2」の「事後奔敵」で「戦闘中人事不省の儘捕虜となり」と特筆し、意識不明の状態で敵に収容され捕虜になった者は「故意奔敵」の定義からわざわざはずしている点。
 つまり憲兵隊(日本軍?)は、捕虜になった時点で「意識があった/なかった」を重視しており、後者には「脱出帰来の努力」を条件として即座に「奔敵」とは認定しないらしい。逆に考えると、意識のある状態で捕虜になった者は当人の内実や状況(武器弾薬の量とか戦況とか)は関係なく、即座に「奔敵」、しかも「同情の余地無き故意奔敵」と見なされると解釈できる。


 また「2」の「奔敵の意思なく逃亡中敵に拉致せられ」は少し意味が掴みにくいが、おそらくこれ以上の戦闘継続ができなくなったもののその場で投降せず撤退しようとしたが失敗した、というケースが当てはまるのかもしれない。そう仮定すると、意識がある場合でも撤退を試みたのであれば、「故意奔敵」とはされない。



 そういうわけで史料の文意をこのように仮定していくと、「抵抗の余力あるにも拘らず」とは、意識のある状態で戦闘現場で投降するケースを想定していると思われる。そうであれば「抵抗の余力」とは、死ぬまで戦うことを指しているのではないかと思う。



 もう一つ、この箇所で興味深いのは、「奔敵」の定義において捕虜になった後、積極的に敵に協力したかどうかは問題にされていない点。
 普通、故意に敵に投降した場合の他、正当な事由で捕虜になった場合でも積極的に敵側に協力した場合は「奔敵」とされるという。
 しかし、日本軍の場合は、意識がある状態で捕虜になった者はまとめて「故意奔敵」であるし、「2」の撤退失敗や「人事不省の状態」で捕虜になった場合でも「脱出帰来の努力」をせず捕虜であり続ければ「事後奔敵」の罪が成立してしまう。つまり日本軍においては、捕虜になった後に敵に協力したか否かを問わず、捕虜になることまたは捕虜であり続けること自体が「犯罪」である、と認識していたと読むことができる*3*4




三「奔敵者に対する敵側の工作状況」


 続いて、共産党八路軍の「奔敵者」(しかしその多くは通常の捕虜であったと思われる)への対応について、帰還者や逮捕者の証言を元にまとめている。
 このあたりは私の専門とも関わるので、いつかその他の資料と照らし合わせながら詳しく述べたいが、簡単に紹介すると

奔敵者に対する敵側の工作は極めて真剣にして注目を要するものあり


とし、「奔敵者」への待遇に対しては

当初は監禁しあるも逐次軟禁し殊に将来の工作を考慮し給養極めて良好なり
 例えば負傷者に対しては懇切に保護を加え例外の対応を与えあり


と認識している。


 また、憲兵隊が特に神経を尖らせている「奔敵者」に対する「思想工作」については以下のことが行われているとまとめている。

○世界戦局における日独の敗北
○卑近なる事例を以って銃後の疲労困憊を逆宣伝す
○望郷の念を煽り厭戦反戦思想の誘発に努む
○逐次理論的共産思想を鼓舞し之が扶植に努む


 と、その大半がまっとうと言うか、事実を教える(日独は敗北しているし、日本の銃後は疲弊している)ものである。事実を教えることこそもっとも効果的と言える。
 それにしても共産党八路軍が「奔敵者」にこのような初歩的な話をしなければならないあたり、「奔敵」がその兵士の意思に基づくものではなかったことを示していると思うが・・・・・・。





四「警防対策」
 

 ここまで現状をまとめたところで、では今後どう「奔敵」に対して対策を立てればいいかが論じられる。
 まず警防対策は、「一般対策」(平素からの全般的に行う対策)、「要注意兵に対する特別対策」に分けて論じられている。


 「一般対策」としては


1.精神要素の涵養
2.部下の完全なる掌握
3.犯罪の原因動機の探究
4.私的制裁の根絶
5.個性調査の徹底


の5項目があげられている。以下に「1」「4」を引用。

1.精神要素の涵養
 勅諭の精神を戦時訓本訓其の二第七「死生観」及第八「名を惜しむ」に基づき体得せしめ万一虜囚の身となりたる場合の処置に関し具体的に教育し置くを要す


 「具体的に教育」と書いておきながら、どう具体的に教育するかは書いていないところが日本軍の文書らしい。とりあえず「虜囚の身となりたる場合の処置」に関する教育とは、捕虜の保護はハーグ陸戦協定で保障されている、とか、危険なので捕虜になった後みだりに逃亡を企ててはいけない、とかではなかっただろう。

4.私的制裁の根絶
 奔敵事犯のみならず他の犯罪特に対上官犯に於いて私的制裁が直接犯罪の動機となる場合多し厳に戒むるを要す


 私的制裁が「奔敵」または上官に対する暴行(反撃)の原因という見解。耐えるだけでなく、「犯罪」と呼ばれながらも反撃を行った日本兵の姿が史料の影から見えてくる。



 続けて、「要注意兵に対する特別対策」として、上記の個性調査を通じて「犯罪」を犯しそうな兵士の見当をつけ、上官は過去の「犯罪」の原因動機を参照してこれをよく監督指導し、時に厳しく時に温情をもって接し、「犯罪行為」を未然に防ぐよう提起している。

 一方で

3.勤務の配置に特に留意するの要あり
4.留守宅と密接なる連絡を保つこと肝要なり

としている。




 『北支に於ける奔敵事例と之が警防対策』の閲覧可能部分はここまでである。閲覧可能の最後のページが二行だけであとは空白になっていることから、閲覧不能の次ページ以降は、それまでとは話題を変えた(あるいは発展させた)パートだと思われる。
 閲覧不能になっている理由として、先のエントリーにて私は史料の性質と前半の内容、およびいくつかの本にあった「生きて虜囚の辱め」を受けた日本兵捕虜の運命を巡る話から、帰還捕虜の処刑に関わる話が記載されているのではないかと疑ったが(←今も疑っているが)、もしかしたら個人(例えば「奔敵」被疑者)が特定できる情報が書かれているがゆえの公開制限である可能性も無きにしも非ずである。・・・とはいえ、ホントのところはどうなっているのやら?



 ともかく、当該史料からは憲兵隊の「奔敵者」に対する見解がわかるだけでなく、憲兵隊が危機感を抱くほど「奔敵者」が続発していた日本軍の状況、そして意識的あるいは無意識的に「奔敵者」となり日本軍から放逐された日本兵らの存在が読み取れる。特に「奔敵者」たちについては、当該史料が極めて冷徹な論調であるにも関わらず、あるいはだからこそ、日本兵たちの諸相の一つとしての彼らの姿が史料の陰からリアルに立ち現れてくるように感じられた。


 

*1:別紙などが付き厚みがあったので勘違いしていたけど、確認したら実際は20ページくらいだった

*2:ちなみにそれはもちろん軍隊・軍事上の「犯罪」であって、状況によってはむしろそのような行為を取ったほうが人としての犯罪行為を忌避することになる場合がある

*3:ただ、気になるのは秦郁彦の『日本人捕虜』でも『日中戦争下 中国における日本人反戦活動』収録の藤原彰論文でもこの『北支に於ける〜』に触れているが、両者とも同史料で示された二十六件の「奔敵」事例をそのまま「奔敵」として取り扱っている点。私的には述べてきたように、これを「奔敵」とみなすのは通常無理があるように思えるが、歴史の専門家の見解がそうならば、やはりこれは「奔敵」なのだろうか?

*4:また、私は今まで憲兵隊の厳格すぎる「奔敵」事例を懐疑・批判する観点から述べてきたが、別の観点、すなわち憲兵隊が言うようにこれらの大半が自らの意思で日本軍を離脱し「奔敵」したのならば、それはそれで極めて興味深いことであり、一種の希望でさえある。藤原論文はそのような観点から、そして秦は日本軍が崩壊寸前にあったことを示す事例として、憲兵隊の言う「奔敵」をそのまま「奔敵」として扱っているようにも読める。