河北省順平県の抗日戦争(3)順平県抗日戦争史[2]1940年〜1941年

『順平県志』(河北省順平県地方志編纂委員会/中華書局/1999年)に準拠した「順平県(当時の地名は「完県」)の抗日戦争史」の年表第2弾です。



1940年1月 
県抗日遊撃大隊成立(県大隊)*1。隊員約200名。
 中共中央が1939年8月に出した「党を確固たるものとする」指示に基づき、新たな党員の確保を停止し、党組織の整理と人員の質的強化を図る。


1940年2月 
八路軍騎兵営が、完県,唐県,望県,定県の武装特務「別働隊」を殲滅。
 第十隊,県大隊、それぞれ土匪武装を殲滅。
 公安局警衛隊と三分区第二遊撃隊、王各庄橋の日本軍トーチカを三度にわたり破壊。
 三回にわたる大規模な破襲戦(線路、電線切断)を発動。


1940年3月 
 日本軍、河北省保定から、満城県,完県などを通って河北省阜平県*2に至る公道を修復する。完県内の公道の全長は42キロ、道の北側には深さ6メートル,幅10メートルの封鎖壕*3が掘られる。完県各地に19個のトーチカが建てられ、封鎖線が作られる。


1940年春 
 山西の抗日根拠地へ大規模な食糧運輸を行う。


1940年3月 
 中共中央の『抗日根拠地の政権問題に関する指示』に基づき、大規模な民主選挙キャンペーンを実施し、“三・三制”*4の貫徹を確認する。
 二支隊が仕かけた地雷により、日本兵一人が死亡。日本軍は現場で追悼会を開き、その後付近の董家庄を襲撃。農民9名を殺害する(董家庄惨案)。
 日本軍が陽各庄を包囲し、村の抗日自衛隊中隊長の劉士元を捕らえ、県城に連行する。劉士元は翌日、監禁場所から脱出し反撃を試みるも射殺される。


1940年4月 
 晋察冀辺区*5が“促憲”運動を展開。これに合わせて完県でも各抗日民主政府と各種団体により“憲政促進会”が発足する。


1940年4月20日 
 晋察冀辺区人民抗日武装委員会が成立。完県の抗日武装自衛隊総隊も県武装委員会に改編され、県委の直接指導を受ける。


1940年5月  
 県文化救国会(文救会)『完県文化』を発行し、詩や小説を載せる


1940年6月末〜7月初め 
 県,区,村レベルで選挙準備のための会議が開かれる。会議後、村劇団,宣伝隊が組織され、選挙実施に向けて宣伝活動を展開。


1940年初夏 
 西北戦地服務団*6が、郷村文芸訓練班を設立。完県から20人余りが参加し、訓練を受ける。


1940年夏 
 公安局長・劉仙峰と警衛隊の一小隊が人夫に変装し、日本軍の道路修理工事に参加。工事監督の日本兵7人を殺害し、銃7丁を手に入れる。


1940年7月 
 県大隊が二団とともに望都県城と巷北の敵拠点を攻撃。近隣の各村は400もの担架を運ぶ。
 六区の中心地である東新興が日本軍に包囲され、区長や県幹部が犠牲となる。
 

1940年7月下旬 
 選挙工作がすべて終わり、各区は人民代表会と区長を選出する。二区では初の女性区長が誕生する。


1940年8月 
 初の県議会が召集され、県長や県議会議長が選出される。


1940年8月20日〜12月5日 
 八路軍が百団大戦を発動。


1940年9月 
日本軍が晋察冀辺区の北岳地区*7を中心に大規模な「掃討」を開始。


1940年10月末 
 日本軍一万五千、13方面から北岳区に侵攻。


1940年11月1日 
 北岳区人民武装委員会、地区内の幹部と自衛隊員に「戦いに備え、敵の報復掃討を粉砕せよ」の号令をかける。


1940年11月 
 北岳区の自衛隊と青年抗日先鋒隊、公路を破壊し、電線を切断し、敵拠点を急襲するなど部隊に協力する。 
 完県人民武装委員会、部隊を率いて保定*8北の徐水県,漕河県および保定南の鉄道沿いの日偽軍に攻撃を加え、鉄道と公道を破壊し、保定の日本軍の移動を阻止する。


1940年秋 
 百団大戦の結果、日本軍は抗日根拠地に対し侵攻,封鎖,掃討の「三位一体」攻撃を行い、完県も危機的な時期に突入する。
 阜平県で文救会の会議が開かれる。会議後、県委は文救会の活動を強化し、県の各区に文救会事務所を設置。
 県内各地で「親汪兆銘派」による抗日活動への破壊工作が起こる。


1940年冬 
 完県委と県抗日政府の指導で、県公安局と各抗日団体が「反汪派」闘争を行う。40人が逮捕され、4人が処刑される。
 県北の巷北、招庄城外が県内日本軍の最大拠点となる。長期駐屯部隊として一個小隊が配属され、重機関銃迫撃砲などが配備される。


1940年12月15日 
 辺区委『統一累進課税暫行弁法』を公布。


1941年1月 
 県委、『統一累進課税条例』に基づき3ヶ月以内に公糧を完納するよう全県に指示を出す


1941年1月1日  
 夜、県大隊の7名の戦士が、偽軍内に入り込んだ味方の協力で尭城橋の日偽軍拠点を攻撃し、4名の日本兵を殺害、10数名の日偽軍を捕虜とし、銃16丁を得る。


1941年2月末 
 全県の大部分の村で村合作社が組織され、区聯社が建設される。県農民合作社は県合作社聯合社に変わる。
 食糧管理を徹底するため、供給制とする。県軍用代弁処は糧食局となり、食糧管理に不適当な県,区,村の食糧管理幹部を罷免する。


1941年3月 
 辺区政府、各県に冀中*9への食糧供給を指示。完県では4回に渡り、毎回2000人を動員して食糧を運搬する。そのうちの一回は日本軍と遭遇し、運搬を護衛していた騎兵営と遊撃隊との戦闘となる。日本兵数人が戦死し、武器と弾丸数百発を得る。しかし、4回目の運搬中にも日本軍に発見され、5名が犠牲となる。


1941年春 
 辺区委、大規模な”三・三制”村選挙を実施。県党委などが各村に赴き、民衆に”三・三制”実行の意義を教育する。その結果、大部分の村では選挙により”三・三制”が実現する。


1941年4月初 
 全県で『統一累進税条例』に基づく公糧*10が集め終わる。


1941年6月 
 完県の模範村劇団の数が92劇団に達する


1941年夏 
 県文救会が農村劇団を組織し、県政府所在地の買各庄で劇や歌の公演を行う。題目は『茂林事件』、『義勇軍行進曲』『保衛黄河』など。


1941年7月 
 県委と県政府、全県で共産党創立20周年の慶賀活動を行う。


1941年7月7日 
辺区委、『晋察冀辺区婚姻条例』を公布し、女性の結婚の自由を法律で保障する。*11


1941年8月10日 
 7000人の日偽軍が南峪,安陽,司倉などを包囲攻撃。当地に駐屯の軍と政府は大きな打撃を受ける。 


1941年8月 
 辺区の参議会にて一部の議員*12が議長を弾劾し、辺区政府は住民の生死を顧みず強引に食料を徴収していると批判する。


1941年11月 
 辺区委、『展開冬学運動実施大綱』を公布。12月1日より全区で冬学*13を開学することとする。完県では11月末に教師の集中訓練、教材の用意などを行う。


1941年11月10日〜21日 
完県では2500名の民兵を動員して唐県(完県周辺の県)城から完県の招庄に至る10キロ余りの封鎖壕を破壊。


1941年12月20日 
完県では3000名の民兵を動員して、完県城から巷北の封鎖壕20キロ余りを破壊

 












 
 

*1:いわゆる地方部隊。八路軍ほど広範囲で活動せず、自衛隊民兵ほど特定地域に縛られない・・・と理解すればよいかな?

*2:当時、河北の抗日根拠地の中心地の一つだった

*3:日本軍が抗日部隊の移動や彼らに必要な物資の運搬を阻止するため掘った壕。一部にかけられた警備厳重な橋からのみしか壕を越えられない

*4:共産党が指導する抗日根拠地内の県・区・村の各選挙にて、幹部に当選する共産党員の割合が30%を超えてはならないとする制度。統一戦線の下、共産党が抗日根拠地の政権を独占しているという非難を避ける目的だったと思われる。

*5:山西・河北・チャハルにまたがる抗日根拠地。完県はここに属する。

*6:劇や歌などを通じて華北の戦地の人々を慰問したり、抗日の宣伝をする団体

*7:晋察冀辺区の一部で、山西省東南部や河北省の一部を含む。完県もこの地区に属する

*8:当時の河北省の中心都市。日本軍に占領されている。

*9:河北中部。完県は河北西部に位置する

*10:軍への支給食料など抗日戦遂行のために必要な食糧、税のように各地に負担された

*11:これまで農村部では女性自身には結婚相手の選択や離婚の自由はなく、封建的慣例で売買婚も横行していた。当該条例は売買婚を全面的に禁止し、結婚は親の強制ではなく男女双方の合意によるものとし、また女性から離婚を申請する自由を認めた。

*12:『順平県誌』では彼らを地主階級を代表する議員としている

*13:冬の農閑期を利用して学校に行ったことがなく字も書けない農民を対象に開かれた初歩的な学習運動

「憎悪の連鎖」を断ち切るためには手段を選ばない人

 当ブログは、私の研究をメモするのを一番の目的としてやっているため、日中戦争に関する気になる言説や歴史修正主義的言説をネット上で見かけても、個別には取り上げて批判や間違いの指摘などはしない方針だった*1
 ただ、記述に事実誤認があり*2、かつその誤認部分がネットで流布されてしまっている一部の日本語文献については、後で少しづつ指摘していくつもりではある。


 しかし、やはりものごとには「我慢の限界」というものがありまして・・・・・・どうにも看過できないクズ記事に遭遇したので、今回は基本方針を破ってちょっと批判を試みてみる。*3

*1:まあ、歴史修正主義的言説には「目を合わせちゃいけません」的対応ではなく、こまめに「はい、だめー」と指摘することが重要だというのはわかるし、その考えに賛同もしているが、いかんせんそんなことをやっていたらただでさえ進まない研究がますます進まなくなると思うとつい及び腰になってしまう。

*2:歴史修正主義意図で史実を歪めた、というわけではなく、専門外の著者による誤認と思われるもの

*3:この記事を書く前にどうにもモヤモヤが処理できないので、「Apes! Not Monkeys!はてな別館」さんの掲示板に書き込んだが、やっぱり自分でも書くことにした。ちなみに「Apes! Not Monkeys!はてな別館」さんでも記事への批判が取り上げられている。

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資料庫とブクログ

 今更ながら「ブクログ」とは何かを知りました。
 そしておもしろそうなのでさっそく飛びつき、本棚を作成。数日前からブログ右下に出現しているのがソレです。もともと文献の整理は「はてなブックマーク内」で行っていたのですが、便利そうなのでブクログでもやってみようと。

 「八路軍研究用本棚」とありますが、そもそも八路軍だけで本棚埋るわけがないので、華北の抗日戦争について書かれた本が主な構成になります。自分の研究用と言うより、日中戦争に興味ある人に参考資料を提示するのが目的です。
 古い本も多いですが、古い本でも見るべき研究はありますし、そもそもかなり細分化されている日中戦争研究においては、分野によっては古い本にしかその研究が無いまたは古い本まで参照しないとイメージがつかめないほど研究数が少ないという場合もありますので、古い本でも良いものは本棚に並べていきます。

 なお、一つ目の本棚の上2段の本が「基本のキ」または「お勧め」の本となっています。残りの段には(一つ目に来る本棚ですので)見目の良い本(表紙が映る本)を中心に並べています。まだまだ構築中でレビューもつけていませんが、おいおい体裁を整えていきます。
 カテゴリ分けなどは、直接ブクログページよりご確認ください*1
http://booklog.jp/users/hatiro8


 次に、集めた資料を整理(?)するための場所としてもう一つブログを開設しています。リンクの「資料置き場」というところからアクセスできます。
http://d.hatena.ne.jp/smtz8+8/

 私の超悪いくせとして、資料を片っ端から集めたのに、整理もしないためどんな資料を集めたか、そもそもどこにどういうふうに保存したかもわからなくなる、ということがたびたびあり、それを何とかするために作りました。整理されていないデータなんて結局何の役にも立たないものなんですよねぇ・・・・・・。
 基本的に自分の整理用ブログなので、見てもよくわからないかもしれませんが、もし非日本語資料で何か入用の資料がありましたら、連絡先のメールにてご連絡ください。日本で入手困難かつコピー可能な資料につきましては、コピー代と郵送代を依頼者負担でご提供します。
 

*1:なお、「読みたい」=まだ読んでいない本もけっこうあります(汗)やはりどうしても日本語の本って言うのは「いつでも読める」という気分になって、中国語資料を優先的に読んでしまうんですよね。まあ、書評などで内容は知っていますし、いずれ帰国した後にまとめて読むためのメモ用に

河北省順平県の抗日戦争(2) 順平県抗日戦争史1937年〜1939年

 だいぶ時間が空きましたが、順平県の抗日闘争について年表を上げてみたいと思います。
 この年表はすでにメモとしてまとめていたのですが、もう少し順平県の抗日闘争史を総合的に理解してからあげる予定でした。ですが、だいぶ時間がかかりその間何も書かないわけにもいかないので、いったん未完成ながらあげておくことにしましや。まだ私自身よくわからないで書いている部分も多く、後でいったん取り下げるかもしれません。


はじめに

 これから数回に分けて、『順平県志』(河北省順平県地方志編纂委員会/中華書局/1999年)内の「抗日戦争」項目に書かれていた年表を元に順平県における抗日戦争の歴史をまとめてみます。

・以下の記述は、すべて『順平県志』にのみに依拠したもので、その他の資料での事実関係の検証は行っていません。
・年表のすべての項目ではなく、順平県の抗日戦争史を理解する上で重要と思われるもののみをピックアップしました。
・順平県で起きた出来事ではなくても、順平県の抗日闘争と深い関係のある出来事(順平県が所属する晋冀察抗日根拠地の重要会議など)も含めイタリック体で示しました。
・逆に順平県と関連ある部隊が県外で行った活動などについては除外しています。
・記述は『順平県志』の年表各項目の内容の趣旨をまとめたもので、年表そのものの翻訳ではありません(年表の文章を翻訳引用する箇所は「」にて示します)。



1937年7月〜1939年12月



・1937年7月7日
 北京郊外にて盧溝橋事件勃発。


・1937年9月 
 日本軍が北京と天津を占領。日本軍20万は平綏鉄路沿い,平漢鉄道沿い,津浦線路沿いの三方面から南下を続ける。国民党軍12万は河北省保定でこれを迎え撃つが、数日の激戦の後に南へ撤退。完県(順平県の旧名)の国民党県長および政府機関人員はその間に南へ避難*1。完県は無政府状態となる。


・1937年9月20日 
 日本軍歩兵第二十師団の一部が完県県城に入城。
 早朝、東湿陽村にて国民党軍から落伍した8名の兵士が日本軍に捕まり射殺される。
 午後、日本軍大隊が二名の外国人宣教師の案内で県城に入る。その後、日本軍はこの2名の宣教師を殺害し、さらに3名の民間人、東関村の岳天義,北関王の毛尓,西朝陽村の精神病者(氏名不詳)を殺害。


・1937年9月27日 
 日本軍の大隊は県城内で7日間休息した後、完県を後にする。


・1937年10月 
 当地出身の晋察冀省委宣伝部長・劉秀峰(共産党員)が完県に帰郷。当地の地下党員、民主人士らと連絡を取り、党組織を復活。および抗日救国団体の設立をはじめる。


・1937年10月25日 
 八路軍115師随営学校校長・王紫風,民政部の幹部戦士20名が完県に到着し、劉秀峰らと合流。
 夜、寨子村にて村民大会および戦地動員委員会選挙を開く。その後、大悲村にて共産党員,知識人,愛国学生・人士などからなる完県初の抗日区政権を樹立。主任(区長)は八路軍幹部の李潮海。


・1937年10月29日 
 八路軍騎兵営(営長:劉雲彪)、完県に到着。県城を回復した後、陳候村一帯に駐屯。


・1937年10月〜11月 
 共産党八路軍によって完県抗日義勇軍が作られる(その他、この時期に各地で民間などによる雑多な抗日武装組織が多く生まれる)。
 中共完県委員会設立(対外名称は民政処)。
 全県的に戦地動員委員会が設置。
 県抗日人民武装自衛委員会設立。
 常庄の学校にて県抗日臨時政府が樹立される。この後、村単位で自衛委員会が設置され、見張り・郵便・食糧管理などを担当する。


・1937年11月5日 
 山西省五台山に晋察冀軍区が成立(完県はその一部となる)


・1937年12月 
 県抗日民主政府、正式に成立。県長は林軍。


・1937年12月27日 
 完県婦女抗日救国会成立。


・1938年1月1日 
 完県抗日義勇軍、晋察冀軍区第三分区第十大隊(団)に改編。隊長兼政治委員は王紫風。


・1938年1月10日〜15日
 河北省阜平県(晋察冀軍区の河北省部分で最も中心的な場所)の各地代表による選挙にて晋察冀辺区臨時行政委員会成立。


・1938年1月31日
 国民政府、晋察冀辺区臨時行政委員会を正式承認。当地の行政を委任。


・1938年1〜2月? 
 八路軍騎兵営と第十隊、民衆に害をなす存在として趙海竜土匪集団を武力にて消滅


・1938年2月4日 
 八路軍騎兵営と第十隊、日本軍の拠点となっている望都県(完県の東)の県城を攻撃。日本軍と偽軍100人余りを殺傷または捕虜とし、囚われていた40名余りの抗日軍民を救出。


・1938年2月13日,23日,26日 
 日本軍が報復のため完県に侵攻。完県県城および常庄などの村が攻撃を受ける。常庄では民衆103人が殺害され、抗日部隊の戦士70余名が戦死の他、強姦された女性数十名、障害を負った者8名、燃やされた家屋496軒の被害となる(常庄惨案)*2


・1938年2月26日 
 八路軍騎兵営と第十隊、常庄を襲った日本軍・偽軍部隊に報復攻撃。日本軍・偽軍100人余りを殺傷。


・1938年3月 
 完県の行政を五つの区に整理。各地で村長選挙を実施。
 文芸・宣伝工作を強化。
 高等小学校の整備。
 

・1938年春 
 県,区,村の各抗日人民自衛委員会の下に、自衛隊を設置。主な任務は、見張り,通行人検査,スパイ摘発,負傷兵の担架輸送と看護など。
 この他、生産から離れ、県自衛隊総司令部の直接指揮を受ける基幹隊(200人前後)を組織*3


・1938年4月15日 
 阜平県にて冀西政治主任公処が成立。完県は冀西二専区の一部となる。


・1938年5月 
 県長・林軍に代わって、国民党の趙景高が完県県長に赴任。


・1938年6月 
 全県的に大生産運動を展開


・1938年6月3日 
 冀西各県県長会議にて、冀西全体で百万元の公債(抗日闘争に必要な公的食糧・物資・金銭。食料,綿花,布などを含む)。そのうち完県は麦8万キロ*4を含む35400元の公債を負担、これを完納する。


・1938年上半期 
 辺区行政委員会が「減租減息試行条例」「村合理負担弁法」などを施行し、雑税と過酷な税金を整理。
 小学校教員の養成。各村から1〜2人の青年を推薦し15日の集中訓練。


・1938年7月 
 青年抗日救国会による新聞『戦闘青年』発刊される。日本軍侵入後の完県の様子を描いた長編報告文学『在激流中』、追い詰められた日本兵の割腹自殺の様子を描いた日記体裁小説『割腹』など、完県の知識人たちが作品を発表する。
 県・区の幹部,小学校教員,学生などにより宣伝隊が組織され、農村を回って抗日の劇・歌・踊りなどを行う。
 満城県(完県の北)に駐屯する保安隊*5に対し、完県党委員会が内部に人を送って工作を展開。当該保安隊は日本軍から離反し、八路軍に参加。完県の住民らによって歓迎会が催される。
 減租減息などの政策を巡って共産党と県長・趙景高および国民党系区長との対立が深刻になる。国民党系の区長職務を解かれる



・1938年8月 
 晋冀察軍区第三軍分区、完県,唐県,望都県の遊撃大隊を基礎として第二遊撃支隊を設立。


・1938年9月 
 趙景高、県長の職務を解かれる。後任に李桂信。
 全県の各政府(区,村など)はどれも共産党の指導下になる。
 日本軍、山西省五台山、河北省阜平県など晋察冀軍区の中心地区に侵攻。完県基幹大隊と第十大隊は日本軍占領下の河北省保定に奇襲をかける。


・1938年11月23日 
 辺区政府、冀西各県に合計2160万キロの食糧を負担させる。そのうち完県の負担は160万キロ*6(「なぜなら完県はその大部分が未占領だから」)。完県は同年内に135万キロを納め終わる。*7


・1939年2月 
 全華北の抗日根拠地への日本軍の圧力が強まる。日本軍は県南部の方順橋駅を占領。および平漢鉄路の両側に完県最初の封鎖壕(深さ6メートル、幅9メートル)を掘る。


・1939年3月2日 
 日本軍、完県城を占領。県城と方順橋駅を連携させるため道路を修復し、県城と方順橋駅の間に多くのトーチカ,拠点を設置する。


・1939年3月 
 各遊撃隊、夜間に日本軍の道路を破壊。
 完県内の行政区分を5区から8区に改編する。
 冀中部隊10000人と馬300匹、部隊の整理休養のため完県に駐屯。


・1939年5月 
 全県で「青年突撃月」キャンペーン展開。大規模な参軍運動が展開される。 


・1939年6月 
 冀中の戦闘部隊、整理休養を終え冀中に戻るが、3000人の後方勤務員,軍需工場員,輸送員および馬100匹は完県に長期駐屯することになる。完県全部隊が1日に必要とする食糧は1万キロ*8に達し、完県共産党委員会は生産の強化、および市場での大量買付けを行い、部隊の食糧を確保する。
 収穫間際の麦を狙って日本軍が東安陽村と西安陽村を襲い、西安陽村の民衆20人余りが殺害される。さらに出動した抗日部隊50人が戦死する。


・1939年夏 
 身を隠す植物の繁茂時期に合わせ、県政府は日本軍占領地付近の山岳区でも宣伝工作を展開。植物の枯れる頃に帰還。


・1939年7月 
 県文化界抗日救国会成立。宣伝物の用意,新聞『抗敵報』や書籍の発行を担当。
 

・1939年8月 
 基幹大隊副隊長・石振山と数名の隊員、県城に潜入して敵幹部の暗殺を謀るも失敗し、石振山は殺害される。 


・1939年秋 
 情勢の悪化に伴い、完県の2つの高等小学校を統合。名称を抗日遊撃小学校として情勢に合わせて安全な場所へ移る移動式学校とする。
 日本軍の保定一一〇師団,張家口の独立混成第二旅団,大同二十六師団,その他の部隊が五台山地区、完県など河北抗日根拠地に対し、いっせいに大規模掃討を開始。完県の八路軍騎兵営・第二団,大十隊反掃討戦を戦う。
 日本軍の掃討および封鎖,自然災害によって完県は部隊の食糧を賄うことが困難になる。近隣の第一専区清苑県より、食糧5万キロを援助してもらう。県政府は二度にわたって輸送運動を展開し、住民4千人が参加。日本軍の封鎖線を越え、70キロの距離がある清苑県から食糧を担いで完県まで運ぶ。


・1939年冬 
 西北戦地服務団が完県に慰問に訪れる。


・1939年末 
 県公安局はスパイ防止のため二重スパイ戦術を展開し、20日で二件のスパイの摘発に成功する。




感想メモ的な

 自分で年表を訳してみて思うのは、やっぱりただ漠然と読むのとちゃんと訳していくのでは臨場感が違うなぁ〜ということ。
 ここまで訳したものを読み返すのは簡単だし、中国語原文をざっと眺めていた時も「ふ〜ん、なるほど」という感じだった・・・もちろんいろいろと興味深くは読んでいたが。
 しかし、自分で時系列順に訳していくと、情勢がどんどんヤバくなっていくのが真に迫ってわかる。当初はただひたすらに抗日の情熱に燃えていたであろう地域が少しづつ暗い影に覆われていく・・・・・・そんなちょっとした恐怖が訳している自分の胸にも生じてくる。それもその情勢の悪化がまだ序の口という印象もばっちし伝わってきて、これから先の時代を逐次訳していくのもちょっと怖くなるんだよね。
 もっともこれは「読む」という行為とは別の「訳す」という行為で原文と向き合った自分だから感じることで、訳した結果のこの年表を読む人に、情勢がだんだん悪化していく、そのヤバさや怖さというものが伝わるかどうか・・・・・・少しでも伝わればいいのだけど。









 

*1:この県に限らず日本軍の南下により華北各地では国民党政府機関が次々と南へ避難し権力の空白状態が発生した

*2:被害内容については年表ではなく別項の『日偽暴行』中の「一 常庄惨案」の記述を元にした

*3:ここで今まで出てきた武装組織を簡単に説明すると、・八路軍騎兵営→八路軍115師から派遣された正規軍。活動範囲は完県内に留まらず周辺一帯となる。本格的な戦闘を担当し生産=農業・工業などには従事しない。 ・第十隊→地方部隊。活動範囲は基本的には県内。騎兵営のサポート的に戦闘に従事し、おそらく生産には携わっていない。  自衛隊民兵の一種。基本的に自分の村周辺が活動範囲。基本的に戦闘には参加せず、普段は以前通り自分の村で農作業などに従事しながら持ち回りで見張りなどを担当する。   基幹隊→民兵の一種。県内が活動範囲。農作業のことは気にせず、八路軍・第十隊などのサポートを行う

*4:実は私は本気で度量衡の計算が苦手なので、原文を示しておく。計算間違いを見つけたらご指摘ください。一応現代の基準で一斤=500gと見なして計算した。「分配完县35400元公债任务,内有麦子500大石(折合16万斤)完県は麦500石(8万キロ分)を含む35400元分をまかされ」

*5:日本軍により組織されそのサポートを行う半警察的な組織。地元の中国人で構成される

*6:「冀西各县动员公粮16万大石,分配完县1.2万大石(冀西各県に16万石の公的食糧徴収の動員をかけ、そのうち完県には1.2万石の負担」、1万石=270斤=135キロ、とすると16万石は2160万キロとなる計算だけど合ってます?

*7:「到年底就完整了粮食1万石的任务(折合270万斤)(年末までに1万石(135万キロ分)の食糧を納める任務を完成した」

*8:「每日需粮2万斤」

河北省順平県の抗日闘争(1) 順平県という場所について

 以前、「中国の『地方志』を元に各地の抗日闘争をまとめてみる」的なことを言っておきながら、ちっとも手をつけていませんでしたが、ぼちぼち始めてみます。


http://d.hatena.ne.jp/smtz8/20100707/1278524638(地方志に見る抗日戦争(1))



 とりあえずは河北省より順平県を。山西省より候補にあげている武郷県または臨県のどちらかを少しずつ取り上げていく。
 なぜこれらの地方を選んだかは↓参照ください。(3)はやや重いです。

http://d.hatena.ne.jp/smtz8/20100830/1283176104(地方志に見る抗日戦争(2))
http://d.hatena.ne.jp/smtz8/20100905/1283702744(地方志に見る抗日戦争(3))



 以下、重くなりますので「続きを読むで」

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証言集=『黄土地上来了日本人』刊行


 一つ前のエントリーで、山西省臨県の農村(かつて三光作戦の被害に遭った村)に移り住み、村の老人たちから抗日戦争中の記憶を聞き取りしている大野のりこさんについて紹介しましたが、その聞き取り調査の結果が本になって刊行されました。

 題名は『黄土地上来了日本人』。東京大学東洋文化研究所附属東洋学研究情報センターより刊行。
 詳しくは著者のブログの↓のエントリーを参照ください。
http://d.hatena.ne.jp/maotouying/20110612


 残念ながら私はまだ本書を読めないでいるのですが、著者の過去のエントリーを元に蛇足的な補足をいくつか。


 『黄土地上来了日本人』は『黄土に土地に日本人がやってきた』という意味で、これは抗日戦争中にやってきた日本軍を指すと同時に、60年後にその地を訪れ老人達と同じ場所に住みながら聞き取り調査をする著者のことをも指しているのではないかと思われます。


 内容はおそらく三光作戦の直接の被害者や肉親を殺された人々の証言のみならず、日本軍にさほど悪印象を持っていない人や元八路軍民兵だった人などさまざまな立場にいた人の記憶が集約されていることでしょう。
 本書は、今まで文字資料中心の歴史から排除されてきた人々(文字の読み書きができない人々)+日本で出版され中国当局の干渉が少ないと思われる点+地域一帯の老人たちの記憶をすべて網羅しているため多角的な抗日戦争像が描けること+元八路軍民兵など日本の研究者から無視されがちな戦闘員の記憶も収録していること・・・・・・などの点によってたいへん意義のあるものとなっていると思われます。


 しかし、残念なことに諸事情*1により、日本での出版ですが諸事情により全文中国語での出版となりました。
 もっとも、日本語訳やネットでの公開の計画もあるようなので、中国語読めないけど興味ある人は注目していてください。
 

 著者の一つ後のエントリーによれば、各地の県立図書館に寄贈されているようです。館外貸し出しはしていない可能性が高そうですが、中国語読める方は図書館内で読むことができます。


 それでは、まだ自分も読んでいない本を紹介するのもなんですが、密かに著者の活動を応援していた者として、取り急ぎお知らせしました。

『記憶にであう 中国黄土高原 紅棗(なつめ)がみのる村から』

・・・全然、記事の更新ができなくて反省反省。でも今後もなかなか更新は難しいな。いい加減地方志の整理に入りたい。


 とりあえず今回は文献紹介です。


記憶にであう―中国黄土高原 紅棗がみのる村から

記憶にであう―中国黄土高原 紅棗がみのる村から


 2003年、本書の著者は、中国陝西省から山西省にかけての旅行中に、車の故障で偶然ある村に立ち寄ることになる。しかし、そこはかつて三光作戦で蹂躙された村であり、著者は戦後はじめてその村・山西省臨県李家山を訪れた日本人であった。
 その村でのできごとは著者に強烈な印象を与えた。そして3年後、著者は

2005年6月、それまで住んでいた北京を引き払って、私はひとり”紅棗がみのる村”に転居しました。(P11)


 ・・・・・・・・・・・・えええええ!!


 三光作戦が行われた村に訪問したとか、調査に来た日本人は他にもいるだろうが、「移住」までした人は聞いた事がないです。


 しかし、著者は本当に移住したのだ。



 ちなみに山西省臨県がどのようなところかと言うと、山西省西部、陝西省との省境にある県だ。(http://d.hatena.ne.jp/smtz8/20100905/1283702744に中国語ですが地図を掲載しています)黄河のほとりでもあり、まさしく黄土高原の真っ只中という感じ。
 この付近で起きた特に有名な虐殺事件では、賀家湾という村で逃げ込んだ壕の中に日本軍が煙を送り、273人の村民が窒息死した賀家湾惨案がある(もちろんその他小規模な虐殺事件も数多くある)。

 

 移住先の李家湾(後に付近の別の村にも移住)とその周辺は今でも平均年収1000元*1ほどの「国家級貧困県」に指定されている農村で、主に紅棗が特産、住居は窰洞(ヤオトン)という場所。



 著者は移住することで、村人との間に信頼関係を築き、周辺の村すべての老人に対して抗日戦争中の記憶の聞き取りを行い、その『証言集』を刊行する予定だという。


 しかし、本書は『証言集』ではなく、著者の李家湾やその後引っ越した近くの樊家山での日々を文章半分写真半分といった写真エッセイ的な感じで紹介する本となっている。黄土の村のリアルな生活と三光作戦の村に日本人女性である著者が受け入れられていく様子がつづられている。


 例えば聞き取り調査の一環として著者は写真を撮っているが、この村では写真そのものが珍しい。著者の村には自分の写真を撮ってもらおうと人々が連日やってくる。著者は家の前に「中日友好写真館 午後五時開店 60歳以上は一枚無料です」と張り紙し、ある程度制限を設けようとする。そんなある日のエピソード。

 

ある日、2枚めの写真を受け取りに、杖を突きながら薛じいちゃんが谷の方から登って来ました。彼はどうやらレンズの前に立つ快感を覚えたようです。ところが写真を渡してもお金をくれません。
「じいちゃん、これは有料だよ」
「ない」
「2枚目からはお金もらうっていったでしょ」
「60歳以上が1枚タダだったら、オレは76歳だから、2枚タダでもいいだろう?」
「えっ? そんな理屈は通らないよ」
「そのかわり歌を歌ってやるよ」
「♪〜…♪〜〜……〜……♪ゼーゼー〜〜♪〜……♪ゼーゼー……♪」
 どうやら抗日ソングのようです。これがなかなか美声で、これならお金は取れないなと内心思ったのですが、途中でゼーゼー何度も息が切れて、聞いてみると心臓が悪いんだそうです。
「じいちゃん、もういいからいいから……」
 と、まあ、こんな感じで、実際に払ってくれたのは2、3人です。そのうえ、噂を聞きつけた隣村から、ぜひウチにも来てほしいとのお声がかかるようになりました。(P73)


 とは言っても、本書でも43人の老人たちから聞き取った興味深い内容を載せている。


 そのほとんどが三光作戦の被害にあった一般住民のものだが、(八路軍研究をしている私から見て)たいへん興味深く貴重なのが元八路軍兵士の証言まで収められている点だ。



 これは私自身の研究内容に基づく不満だが、抗日戦争時の中国民衆のことについて書かれた日本の文献では非戦闘員であることがはっきりしている民衆のことについてはインタビューや諸々の調査が行われているが、八路軍兵士(や民兵)であった者たちについてはほとんどスルーされているのが私は以前から不満だった。
 もちろん、戦争研究にとって最も無力な人々の視点に立つことは一番重要なことだと思うしそれだって三光作戦の調査をはじめまだまだ不十分だと思う。しかし、それ以外について軽んじている印象*2*3はぬぐえない。もし八路軍兵士も中国民衆の一部であり、往々にして地域住民の一人であるという観点から考えればなおさらである。
 まさしく本書では、八路軍兵士が以前からその地で暮らし今も暮らし続けている住民であること*4がはからずも示されている。



 それでは中国側の研究はどうかというと、八路軍関連の研究は山のようにされているし、当事者たちの『回想録(集)』も数多く出版されている。
 しかしここで気をつけねばならないのが『回想録(集)』に自らの体験を載せられるような人はそのほとんどが当時またはその後一定以上の地位にあった人々であり、一兵卒の体験が収集対象になることは少ない。
 もちろんまったく無いわけではないが、それでも『回想録』という性質上、<文字の読み書きができる>ということが条件になってしまう。しかし、農民出身の兵士の多くが昔も今も非識字者である。本書でも
 

私が出会った老人たちのほとんどは字がかけません。いま誰かが記録に残さない限り”名もなき”農民たちの無数の記憶は、いずれ”なかったこと”として歴史の闇に葬りさられることでしょう。実際に、ある日突然、彼らの記憶が絶対の闇のなかに瞬時に折りたたまれてゆくその時を、私自身の目で何度も見て来ました。平均寿命のきわめて短いこの地で、わずかに残された最後の記憶にであうことができた私の幸運を感謝せずにはおれません。(P173)


とある。


 近年、中国の歴史学界でも「文字資料偏重」が問題視されるようになったのか、オーラルヒストリーの重要性、非識字者の戦争体験の早急な収集の必要性が言われているようである。良い傾向だと思うが、それでも中国国内ではその証言に制約がかけられる心配もある。



 これらの理由から、私は日本人である著者が本書で八路軍兵士の証言を扱っていることをたいへん貴重に思うし、今後の本格的な『証言集』も楽しみにしている。
 ただ、少し補足すると本書では5人の男性が「元八路軍兵士」*5と紹介されているが、うち一人はその証言内容から抗日戦争中は「民兵」であったのではないかと思われる。
 


 そのうち著者が接触した最初の八路軍兵士とのやりとり、そしていかに彼が証言してくれるに至ったかを紹介してみよう。

 ようやくにして、元八路軍兵士曹汝福老人から話を聞くことができました。
(中略)
 私もある村でお相伴に預かっていると、この村に日本人に腕を切り落とされた元八路軍兵士がいる、という話を聞いたので、さっそく訪ねてみることにしました。小さな村のことなので、左袖がむなしく垂れ下がった曹老人の姿はすぐにみつかりましたが、私が取材を申し込むと。彼は「日本人に話すことは何もない。写真も撮られたくない」といって、さっさと奥に引っ込んでしまったのです。まさに取りつく島もありませんでした。私はなんのアポもなく突然訪れた非礼を詫びたい気持ちでしたが、おばあちゃんの方はくったくがなく、写真がほしいというのでシャッターを押しました。そしてすぐにそこを辞そうとすると、おばあちゃんがどんぶりいっぱいの紅棗を持って来て、「持っていけ」「いえ、けっこうです」が何度もくり返されたのですが、そこへ突然曹老人が現れて、何もいわずに私の手提げ袋の中にその紅棗をざざーっと入れたのです。一瞬のことでした。
 そこで私は不覚にもぼろぼろっと涙を流してしまったのです。曹老人がいきなりやって来た日本人の私を拒否したのなら、それはむしろあたり前のこととして終わったのですが、思いもかけない彼の無骨な優しさに接した瞬間、私はどうしようもなく切なくなってしまったのです。60数年ぶりにずかずかと踏み込んできた日本人を前に、永遠に消えることはないであろう左腕の痛みと、はるばる遠くから自分を訪ねてきた客人に対するこの地の”もてなし”との間で、彼の心は激しく葛藤したことでしょう。しかし最後にはこの地の習慣に従ったのです。(中略)
 そして数日後、バイクの後ろに乗って高家塔の隣村へ行く途中、向こうからオート三輪の助手席に乗ってやって来る曹老人とばったり出会いました。私たちはほとんど同時に車から降りて近づき、ごく自然に握手をかわしました。曹老人はニコニコ笑いながら、「帰りはウチに寄って、今夜は泊まっていきなさい」といったのです。
(中略)
 話を聞くうちに、彼が左腕を失くしたのは、嵐県という北の方の戦場で、日本兵と白兵戦の末、刀で切り落とされたということがわかりました。部隊が壊滅して、300人のなかの6、7人の生き残りのひとりだということですが、ほんとうによく生きて帰って来られたなと思います。(中略)そして、その白兵戦で睨み合ったにっくき日本兵の次に出会った日本人が私だったのです。この広大な中国で、そして60数年ものときを経て、こういう人たちと出会える不思議な縁を思わずにはいられません。(P146〜P147)


 多くの困難に遭いながら、著者を動かしているものはなんだろうか? 著者は前書きで書いている。最後にそれを紹介しよう。


 私は彼らが60数年もの長い間、”私たち”がやって来るのを待っていたのだと思いました。そして同時にこれ以上は待てないこと、つまり体験者がどんどん亡くなっていくという現実を前にして、私は待たれていたことの責任を、自分なりに果たしたいと考えました。そして、「この村であったことを、日本に帰ったらみんなに伝えてほしい」という、陳老人のたったひとつの要求に応えたいと思ったからです。(P11)


 著者のブログ
  http://d.hatena.ne.jp/maotouying/




追記

 本音を言うと、実は私は著者の活動を手伝いたくてしょうがないのだが、どうやったら手伝えるものか、目下多いに悩み中である。

*1:1元=13円〜14円。イメージ付けのため例をあげると、私がとある中国の地方都市で見た中卒(初級中卒)女子向けの求人で住み込みで月1000元というのがあった

*2:しかし私も日本の関連分文献にまだまだ詳しくないので、誤解しているだけでちゃんと扱われているのかもしれない

*3:前回紹介した『日本軍毒ガス作戦の村』には民兵の証言も収集してあった嬉しかった

*4:言い換えれば、戦争さえなければ彼らは一生「非戦闘員」であった

*5:ちなみに私が調べた範囲ではこの地方で活動していたのは主に八路軍の120師